人は己を不運だと考えると袋小路に入る

今回の熊本地震でも多勢の人が亡くなっている。考えてみれば、私たちは日本という地震を抱えた国土の上に住んでいる。太古よりの宿命ともいうべき、この国の災害を前に、私たちは何度も打ちのめされてきた。天災ではないが、先の戦争でも国土は荒廃した。だが、そのたびに日本人は「さぁ、この土地でもう一度生きよう!」と瓦礫の中から起ち上がり、笑顔を取り戻してきた。辛さと喜びが隣り合わせているのが、私たちの生命だとしたら、決して不運などと考えずに、まなざしを上げて進んでいくことだ。

人は己を不運だと考えた途端、袋小路に踏み込んでしまう。そこには光が差し込まない闇しかなく、その瞬間から、生きる力が停滞してしまう。だから私は、不幸な時期や逆境に喘ぐ若い人に胸の底でつぶやく。――決して不運と思うなよ。もっと辛い人は世の中にゴマンといる。今、その苦しい時間が必ず君を成長させる。世間、社会、他人を見る目が広く深くなるのだ、と。

おそらく、日本人は不運を遠ざけるということを、長い歴史の中で経験的に学んできたのだろう。しかし最近、その力が弱まっているような気がしてならない。というのも、日本というコミュニティの中で会話がすごく少なくなったからだ。原因は、携帯電話とメールだろう。そこには挨拶程度のやり取りしかない。津波で娘を亡くしてしまった知り合いが、「俺、何だかきついんだよ」とつぶやいても、「一体どうした?」といった流れにはなりようがない。

けれども、その人が目の前にいれば直に目を見ながら話すことができる。そして、「あぁ、この表情では……」と感じたら、「ちょっと海が見える場所まで行こうか」と誘えばいい。海岸では、死んでしまった家族との思い出がよみがえるかもしれない。そんな時こそ、私の弟を亡くしてからの40余年の歳月が意味を持つ。
「懸命に生きていけば必ず、納得のいく時間が訪れる。その時、君は震災の体験を不運だとは思わないはずだ」

私が、日本人はたいしたものだなと痛感したのは阪神大震災や東日本大震災で集まったボランティアたちだ。「自分は今、被災者のために何をしたらいいのか」ということを、あれだけの数の若者が模索したということである。一方で、正規・非正規の格差が広がる中でエリートをめざす人たちもいる。人の価値が数字で表せると信じ、自己中心の人生プランで行動している。

仮にもエリートと呼ばれる人たちが、庶民のことを考えて行動する社会であれば、この国の将来も捨てたものではない。だが残念ながら、彼らには他人を助けたことがないし、困った時に友人から救われたということもなさそうだ。もし、そんな経験があれば、「どうして他人のことをこんなに気にかけてくれるのだろう……」と考えるはずだ。男というものは、そうした積み重ねがないと大人になれない。