古来、勉強には独学というやり方がある。しかし「意志薄弱な自分には無理」と思い込み、敬遠する人が少なくない。普通の人が、学校や先生の助けを借りずに満足のいく結果を出すことはできるのか。高校・大学時代を独学で過ごし、東大教授になった柳川氏は「心配ご無用」と太鼓判を押す。その理由とは?
「唯一の正解」を学ぶだけではダメ
いまでこそ大学で学生に教える仕事をしていますが、私は中学校卒業以来、大学院に入るまで「学校」へ通ったことがありません。高校生に当たる時期には、父の仕事の関係でブラジルに住んでいたこともあり、日本から取り寄せた教科書と参考書で自習していました。その後、大学入学資格検定(大検)に合格すると、今度は慶應義塾大学経済学部の通信教育課程を受講しました。
そんなわけで、東京大学大学院に入学して伊藤元重教授(現学習院大学教授)のもとへ通うようになるまで、私にとって、勉強とはほとんどが独学を意味しました。でも、それで何の不都合もなかったばかりか、いま振り返ると、独学こそ現代人にふさわしい勉強法だと思っています。
「先生から教わった答えを正確に覚える」。これは通常の学校教育の基本といっていいでしょう。しかし、問いに対して最初から正解があるという前提が成り立つのは、実は学校というフィクションの世界だけです。
たとえば、仕事に唯一絶対の答えがありますか? 誰かが成功したやり方をそっくり真似ても、うまくいくとはかぎりません。時々刻々と変化する市場や移り気な消費者のニーズを読み解き、その都度最適解を自分で考え結果を出す、ビジネスパーソンに日々求められているのは、そういうことのはずです。もちろん、簿記のルールに従って売り上げを仕訳するといった、正解のある仕事もありますが、逆にいえば正解があるのは、そういう単純なものだけなのです。
また、多くの人は、役に立つ知識や情報を頭に詰め込むのが勉強だと思っているようですが、それも正しくありません。たしかについ最近まで、他人より多くを知っている百科事典のような人の有用性は、会社でもそれなりに高かったといえます。
ところが、現在では、誰もがスマートフォンを持っているじゃないですか。それを使えばわからないことはすぐに調べられるし、仕事に必要な資料もデータにして持ち運べるので、細かく覚えていなくても大丈夫。知っているということの価値は大きく下がってしまいました。つまり、知識や情報を覚えるのは、もはや勉強の目的として適当ではないのです。
では、現代の勉強とは何か。それは自分で考え、自分なりの答えを出せるようにする、あるいは、自分で判断を下せるようにするための頭の使い方を学ぶことです。知識や情報をただ暗記するのではなく、それらを加工して自分なりの新しいアイデアや理論につくりかえることだと、いい換えることもできます。
そして、それに向いているのが独学です。