杉原千畝(すぎはら・ちうね)
1900~86年。24年外務省入り。ヘルシンキ日本公使館を経て39年にリトアニアの日本領事館領事代理となる。40年夏、本国の命令に背いて、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民にビザを発給して彼らを救い、のちに「日本のシンドラー」と呼ばれた。
1900~86年。24年外務省入り。ヘルシンキ日本公使館を経て39年にリトアニアの日本領事館領事代理となる。40年夏、本国の命令に背いて、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民にビザを発給して彼らを救い、のちに「日本のシンドラー」と呼ばれた。
辻井が取材のためリトアニアへ足を踏み入れたのが2002年6月27日。杉原がビザを書いた季節に合わせるべく、1週間の滞在だった。この季節、現地は白夜だった。
「黄昏の中で夜でもなく昼でもないという時間が長く続く。やはり、来てみてよかったと思いました」
親日家たちの案内を受けて主なところを回った。「森の兄弟」といわれた独立運動の志士(パルチザン)たちが立てこもった深い森にも案内された。主な都市には必ずユダヤ人迫害の記念館が立っている。杉原が勤務した日本領事館は現存し、杉原千畝記念館となっていた。
杉原は、この薄明かりのもと、この領事館で苦悩の末に独断で日本国の通過ビザの発給を決断した。祖国日本の立場と、死に直面した避難民の群れ。どちらが大事なのかを苦吟の中で推し量ったのだ。
「杉原は、思想的にはヒューマニストだったと思います。だから人種差別は我慢できない。それだけのことだと思います」
杉原を助けたのが、現地にいたオランダの外交官だったと辻井はいう。
「避難民たちは行き先が決まっていない。そこで『杉原さん、オランダ領のキュラソーにしたらいい』と。それでビザが出せるようになったのです。ユダヤ人たちの辿った道は、カウナスからベルリンを通らずにレニングラードへ行き、ここでシベリア鉄道に乗ってウラジオストクに入り、船に乗りかえ舞鶴か新潟に上陸して神戸まで移動する。神戸で再び船に乗り、太平洋を横断してアメリカへ渡る。西海岸で汽車に乗りニューヨークへ。命からがらニューヨークへ辿りついた人が多かったようです。ここまで来ればひと安心でしょう。この逃避行を可能にしたのが杉原だった」