他者に無言で“実行犯”強いるシステム
領収書の使途が私費か公費かは、使った本人が一番よく分かっているはずだ。支払い代行が同行の秘書であれば、それを私費とする旨を秘書に命じればすむことであり、領収書に宛名の記載を求めれば、店は必ず手書きの領収書をその場で発行する。会計責任者は領収書で使途の公私を判別するのだから、宛名入りの領収書を渡せば公私振り分けの判別も容易であり、さらに言えば、判断責任の所在を曖昧にする「プール金システム」などはやめて、会計に回す領収書は公費のみとすればよい。
しかし実は、この「曖昧な判断責任」が問題なのである。舛添氏の政治団体「グローバルネットワーク研究会」「泰山会の政治資金」「新党改革比例区第4支部の政治資金」の各々の収支報告書には、いずれの会計責任者にも「野口英伍」という氏名が記載されている。組織の権力者が持ち帰った領収書に宛名が記されていなければ、それを渡された会計係は何かを暗示されたように感じがちだ。
「暗示」とは、物事を明確には示さず、手がかりを与えてそれとなく知らせることである。舛添知事が野口氏に渡した宛名なしの領収書には、「私費であっても極力、上手に公費として処理せよ」との含みがあったことは想像に難くない。舛添問題でこれが危ういのは、公職者による税金の使い込み=公金横領に直結するからである。
この「暗示含みで他者に“実行犯”となることを無言で強いるシステム」は、世の中に蔓延している。舛添問題だけでなく、永田町でも昔からの常套手段だ。今回のように収支報告書等の記載事実を「動かぬ証拠」として突き付けられても、「自分は知らなかった」「担当者のミス」「事務所の不手際」と言い張れるのは、実際に使途の公私を振り分け(判断)して記載処理(実行)したのが自分ではないからである。
政治家に限らず、老獪な上司は手下に責任を転嫁するために、不都合な決定の場面をあらかじめ曖昧にしておく術を心得ている。会計責任者はその“実行犯”となりがちだ。その能力に不都合や不備・不足を感じて、権力者が「今後は政治資金に詳しい専門家に判断を委ねる」と言ったとすれば、それは「私費を公費に化けさせる専門家を雇って、今後は証拠を残さぬようにする」と公言しているようなものだ。これでは、税金の無駄遣いをするための人材を雇って、さらなる税金の無駄遣いを生むことになりかねない。
だが、こうした巧妙で狡猾な責任転嫁は、部下に暗示する“確信犯”としての権力者に対する断罪だけで減らすことは難しい。なぜなら、前述の記者クラブに見られるような「軋轢の回避」が、組織の上下関係にも蔓延しているため、暗示された側がいつも腰砕けで、唯々諾々と暗示に従いがちだからである。
その結果、いつのまにか「そういう対応こそが自分の職責」と思い込まされてしまう。少なくとも何らかの専門職には、自らの職責に反する命令に対しては、それが明示か暗示かを問わず、己の職責確認を命令者に対して問う、という形での反論・主張の仕方がある。法に則った適切な会計も、権力監視を全うする報道も、求められているのはプロとしての毅然とした態度である。
「何事もオトナの対応が必要」などと言っていたら、世の中は公金横領や贈収賄だらけになってしまう。