――超ビッグ対談は、健康法の話題から始まった。「土曜日は天気がよかったら、ゴルフに行く。普段運動をしないので歩くのが目的」と、ゴルフ健康法を披露する鈴木敏文氏に対し、「私はずぼらなもんで、暇なときはちゃぶ台の前にどてっと座ったきり。あとは散歩がてら買い物に出かけたり」と、照れながら話す稲盛和夫氏。
余暇の過ごし方も対照的な2人だが、それぞれ83年(取材当時)の人生の足跡において、紆余曲折や数々の挑戦、歴史に残る偉業など、互いに共通点が多い。
経営スタイルも、性格も対照的な2人なのになぜ、共通点が多いのだろうか。それは、「自分たちの都合の範囲内で一生懸命仕事をする」ことと、「自分が本当に正しいと思うことを懸命に実行する」ことの違いを、どちらも知悉しているからだろう。
稲盛氏も、鈴木氏も、目の前の大きな課題に直面したとき、その都度、困難であっても、自分で「正しい」と思う判断を行い、実行していった結果、似たような道を歩むことになった。そして、それはたいがい成功に結びついていった。
選択を迫られたとき、日本を代表する偉大な経営者たちは、迷わず、悩まず、どのように判断し、決断したのか。そして、それぞれの人生において、何を学び、身につけ、日々の取り組みに活かしていったのか。
超ビッグ対談は、山あり谷ありの人生から、2人が学んだ生き方、働き方の神髄を伝授してもらった。
少年時代
▼挫折感や劣等感をバネにして
──お二人に共通するのは、人生の最初の試練である中学校(旧制)入試で失敗していることです。どのように受け止められたのでしょうか。
【稲盛】私は子ども時代、根は内弁慶の泣き虫でしたが、小学3年生のころには、すっかりガキ大将になって、仲間とグループをつくり、親分気どりで引き連れては遊びほうけていました。
卒業が近づき、進学先は地元鹿児島市で一番の名門、鹿児島第一中等学校(現・鶴丸高等学校)を受験しました。成績は甲乙丙の乙ばかりで中ぐらいでしたが、ガキ大将であれば、強気を通さないわけにはいきません。
結果は不合格です。受験前から、嫌な予感はしていました。私はえこひいきをするクラスの担任の教師に対し、反抗的な態度をとったため、担任から「今の内申書ではどこの中学校にも行けない」といわれていたからです。
やむなく、国民学校高等科へ進みます。ついこの間まで子分だった連中が一中の制服を着てさっそうと歩いていく。その姿を見るたびに、挫折感と屈辱的な思いでいっぱいになりました。
1年後、再び一中を受験し、また失敗します。私も家族も就職するつもりでしたが、高等小学校の担任に、「男ならあきらめるな」と強く勧められ、私立鹿児島中学校を受験して、ようやく中学に進むことができたのです。
ところが、中学生になって、数学がわからない。小学生のころ、いかに勉強をしてこなかったか、気づかされました。このままだと、あまりにもみっともないし、恥ずかしい。私は小学校5、6年生のときの算数の教科書を引っ張り出して、もう一度、勉強し直しました。すると、数学が面白くなり、以降、高校、大学と、理数系が逆に得意科目になっていったのです。