先日、母が経営する飲食店が2号店を出した。今回はその店について述べてみたい。

都内・板橋の某商店街に母が店を開いたのはいまから7年前。きっかけは、パートとして勤めていた居酒屋が給与不払いのまま店を閉めたことだった。当初、母は「公的に補償してくれる制度はないか」と私に相談してきた。しかし、いつの間にか「自分で店をやりたい」という話に切り替わっていた。私が幼い頃から働き続け、接客業の経験が長かった母は、「いつかは自分の店を」という“夢ならぬ”野望を抱いていたのだ。

職を失ったとき、母は60歳。長年温めてきたマグマのような思いを噴出させたからなのか、すぐに借りられる店舗を自分で探してきた。でも、見事なバラック建てで、カウンターを挟んでわずかな数席に、控え室があるだけの小さな店。とりあえず朝は蕎麦、昼は加えて定食のランチも供する店としてスタートした。

息子として「いざ蓋を開けてみたら大繁盛!」と言いたいところだが、当初は客が入らずに大苦戦。周辺の競合店との差別化を図るなど、大筋はマニュアル本に則って私が営業戦略を立てたのだが、教科書どおりにはいかなかった。

そんな状況のなか、母は勝手気ままに店を切り盛りするようになった。早朝6時半開店は昔からの仕事仲間に店を任せる。9時から夕方までは母が店に立ち、近所に住むシニアを相手にする。さらにそれ以降の時間は、第三者に店を任せるようになった。そして、ビールや焼酎とともに、私が子供の頃によく口にした家庭料理も1日中並べるようになった。

すると、たちまち大繁盛。「おいしいつまみで、ちょっと一杯」と立ち寄ってくれる人が増えたのだ。近所にタクシー会社があって、早朝の時間帯は帰宅して寝る前に一杯ひっかけて緊張感をほぐしたいドライバーの人たち。日中からは、時間を持て余し、ともすれば家庭内で煙たがられることもあるシニアの人たちが、ひっきりなしに訪れるようになった。

いまから考えると、店が繁盛し始めた大きなポイントは、母自ら店先に立ちながら人の流れを観察し、お客とのコミュニケーションのなかからニーズをみとり、それに合わせた営業スタイルへ大胆に変更したことである。現場を知ること。これは会計士も同じで、決算書を見るだけでは適切な助言はできない。

飲食店を成功に導いた「修破離」

飲食店を成功に導いた「修破離」

室町時代の猿楽師・世阿弥の言葉とされる「修破離」。師の教えを倣い、修めていく「修」。自らの創意工夫を加え、師の教えを乗り越えていく「破」。そして、自らの新しい教えを打ち立てる「離」。はじめての店舗経営にもがき苦しみながらも、母はこの「修破離」のステップを踏み、一人前の経営者になったのだ。

下町っ子のように威勢のいい母の接客は、丁寧という言葉からはかけ離れている。気にくわないことがあると、お客に出入り禁止を言い渡すこともある。でも、次の日になると、そのお客はニコニコしながらやって来る。たまに私が顔を出すと、そんな常連さんが「お母さんは口が悪くていつも苛められているんだよ」と笑いながら“クレーム”をつけてくる。

特別安いわけでもない。メニューも一定せず、何が食べられるかもわからない。でも、人間味溢れた家庭的なサービスがある。だから1日に何十分か、大笑いしてストレスを発散できる居心地のいい場所を求めて大勢の常連さんが来る。母は「居酒屋ビジネス」から「居場所ビジネス」へ「修破離」を成し遂げたのだ。

そして1号店で苦楽をともにした従業員に、2号店を任せている。母の教えが2号店での「修破離」を通して、どんなビジネスに発展していくのか、いまから楽しみにしている。

(高橋晴美=構成 ライヴ・アート=図版作成 )