科学の仕事に「物差しを作る」という大事な作業がある。たとえば距離や重さを測るには、巻き尺や体重計が必要だ。計測器にはメートルやキログラムといった世界共通の目盛りが付いている。
同様に、時間を計るのは時計であり、年月日や時分という単位が用いられる。そして地球が刻んだ時間を決めるのは地質学の仕事だ。それも10年や100年ではない。何千年あるいは何万年という時間を正確に測定したい、と私たち地球科学者は長いあいだ思案してきた。
この仕事に大きな貢献をした研究グループがあり、その1人が二十余年に及ぶ試行錯誤の物語を著した。『時を刻む湖』は、福井県・若狭湾岸の一角にある水月湖(すいげつこ)が、過去5万年の時を刻む「世界の標準時計」となるまでのサクセス・ストーリーである。
静かな湖の底では、細かい堆積物が毎年わずかずつ溜まっている。これが規則正しい土の縞(しま)模様を作って1年ごとに成長するので、「年縞(ねんこう)」と呼ばれている。年縞に含まれる花粉や火山灰などを分析することで、過去の気候と環境を知ることができる。言わば、水月湖の底には地球の「古文書」が埋まっているのだ。
これらを精密に解読しようと湖底でのボーリング調査が始まった。しかし、決して容易なことではなく、世界の標準時計になるまでには艱難辛苦の連続だった。その間の挫折と栄光を当事者がつぶさに語ったのが、本書である。
科学では最初に誰が発案したかというプライオリティ(先取権)が大事で、困難極まりない研究を始めようとした安田喜憲教授を鮮やかに描く。
「大きすぎるリスクを避けて水月湖を掘削しない理由は、見つけようと思えばいくらでも見つかったはずである。だが安田先生は、水月湖を基盤まで掘削する決断をした(中略)。安田先生は(中略)『私は年縞研究の扉を開いただけである』と書いておられるが、これは謙虚にすぎる。1993年の掘削を『穴を掘っただけだ』というなら、コロンブスもまた西に航海しただけである」(12~13ページ)。理系人としては稀に見る見事な文章力によって、小説を読むような軽快さで一気に読了へ向かわせる。
そして地道な研究成果が日の目を見る日がやってきた。科学者なら一度は名前を載せたいと願う最高峰ジャーナルの「サイエンス」誌が、ワシントンから代表者を文部科学省へ連れてきて水月湖の研究紹介を行ったのだ。この内容は24時間以内に世界16の言語で配信された。
日本の科学界は今年もノーベル賞受賞に沸いている。世界で評価される研究成果が、長年の根気強い努力から誕生することを、本書からも知っていただきたい。日々地道な仕事を続けることに勇気がわいてくる一冊である。