日本人は、生真面目で、勉強熱心だと言われる。最近は、そうでもないという意見もあるが、実際には、まだまだ勉強が好きな人が多いようだ。

さまざまな分野の「検定」や「資格」の勉強に励む人も多い。英語や、漢字、数学といった基礎的な能力から、さまざまな仕事に必要な国家資格、さらには「京都検定」や「金沢検定」といった、地域の歴史、文化、観光名所に関する知識を問うものまで、さまざまな機会をとらえて「勉強」をする人たちがいる。

ビジネスに直結する資格や技能は別として、生活に直接かかわらない知識、スキルは、一種の「贅沢」でもある。

このところ、大学教育のあり方をめぐる議論が盛んだが、いわゆる「教養」=「リベラル・アーツ」の教育などは、何かと世知辛い世の中で、もはや最高の「贅沢」だと言えるかもしれない。

今やっている仕事や、置かれている立場に比べて、その人の知識や技量が過剰だと、いわゆる「オーバースペック」の状態になる。「あんなに知っているのに」「あれほどできるのに」もったいない、などと周囲から言われる。オーバースペックは、「宝の持ち腐れ」などと言われがちだが、そうでもないと私は思う。

痛快な“養老節”で綴られた著書「『壁』シリーズ」は累計580万部を突破。

解剖学者の養老孟司先生にお目にかかる度に、こんなにオーバースペックな人はいないなと驚かされる。養老先生というと、英語のイメージはないかもしれないけれども、この前も、手持ちの電子書籍リーダーに、数百冊の英語の本が入っていると聞かされて驚いた。

この数年、養老先生が開かれる「養老忘年会」にお邪魔している。先日出席した際も、古代ギリシャの建築に対してエジプトが与えた影響、一神教の起源について、さりげなく軽やかに「剛速球」の叡智を繰り出されてびっくりした。