江戸時代の藩校の伝統を引き継ぐ学校

公立高校の中には、江戸時代の藩校からの伝統を受け継ぐとされる学校がある。たとえば岡山の仮学館の流れを汲む岡山県立岡山朝日高校。源流をたどれば、約350年の歴史を誇る超伝統校である。松山の明教館の流れを汲む愛媛県松山東高校は2015年春の甲子園に出場し、話題になった。そのほか、会津の日新館の流れを汲む福島県立会津高校、佐賀の弘道館の流れを汲む佐賀県立佐賀西高校などが有名。いずれも各県を代表する高校として今も独特の存在感を放っている。

2015年の東大合格者数で躍進した福岡県立修猷館はもともと、1784年黒田藩の藩校・東学稽古所修猷館として始まった。開校の際に掲げられた孔子聖像は、今も修猷館に受け継がれている。明治になってからの初代館長(校長)の隈本有尚は東大予備門教諭をしていた人物。教え子には夏目漱石、正岡子規らがおり、夏目漱石の『坊っちゃん』に出てくる数学教師・山嵐のモデルともいわれている。

(左から)福岡県立修猷館、鹿児島県立鶴丸高校、修道中学校・修道高等学校

薩摩藩の藩校・造士館は学問を重んじたことで知られる島津家によって作られた。造士館は現在の鹿児島大学へとその系譜を引き継いだが、その紆余曲折の中で現在の鹿児島県立鶴丸高校が誕生している。校名は島津氏の居城鹿児島城の愛称「鶴丸」に由来する。西郷隆盛、大久保利通など、明治維新の立役者を多数輩出した。

廃藩置県を乗り越えた藩校の多くが公立の学校になったのに対し、広島の私立中高一貫校・修道は、藩校が私学として存続した珍しい例である。1725年、広島藩5代藩主・浅野吉長が「講学所」を作ったのが始まり。廃藩置県で一度は廃校になるが、旧藩主・浅野長勲が私財で浅野学校を設立。藩校時代に塾頭を務めていた山田十竹を校長とした。1881年これを修道学校と改名した。しかし官からの圧力で、浅野家は修道の経営から手を引かなければいけなくなった。公立の学校にとって修道は邪魔な存在であったからだ。そこで山田十竹は自ら修道を経営することにする。そして現在に至る。江戸時代から聖廟に祀られていた木主は今も修道に残っている。

これらの学校の生い立ち、歩みについては拙著『名門校とは何か? 人生を変える学舎の条件』にさらに詳しい。