日本の酒どころ

伏見の桃山には京阪と近鉄の駅があって交通の便よく、わが幼なじみが下宿していたのをこれ幸いと、冬夏の休暇のたびに東京駅から夜行列車で大垣へ行き、京都まで乗り継いで、宿を借りに転がりこんでいた。それがもう40年前になる。

その下宿の造りが京ふうに間口は狭く、入ると坪庭どころか無駄に広い中庭があってそれを囲んで平屋の下宿部屋と共同便所があった。この便所が汲み取り式で、驚いて友に訊けば、大家いわく、

「下水道を掘って、土器のかけらでも出た日にゃ工事を止められて、ウンコひとつでけんようになりますえ」

と水洗にするのを逡巡しているのだそうな。

大内ならいざ知らず、寺田屋が船宿であったように、伏見のこのあたりは中古にあっては宇治川ひいては巨椋(おぐら)池の水底であったはずで、掘ったところで遺物なんぞに当たる心配は不要と思えたがそこは我関せずとした。

伏見は盆地の底にあたり、たとえるならば漏斗の注ぎ口のようなもので、低きに向かって流れる道理で水が集まる。この豊富な地下水を利用して酒造りが隆盛となった。

わが友の下宿周辺にもいくつか酒蔵があったが、貧乏学生にしてみれば質より量、なにより安値が選択基準で、銘柄なんぞには眼もくれず、どぼどぼとやかんにぶちこみ電熱器で燗をつけて、冬なら「千枚漬け」、すぐき、壬生菜などの漬けものをアテに酔うほどにボルテージ上がれば、ベニヤ板壁一枚向こうの学生住人が般若経やら陀羅尼を唱えて対抗、やがてドンドンと大家のノックでお開きとなる毎度のお騒がせも、今となっては懐かしい。

その頃、「月桂冠」はお歳暮でしか見たことのない高級品で、ずっとそのイメージが強かったのだが、痛風オヤジとなって伏見へ来て工場見学をする機会があり、それまで抱いていた固定観念がまるで一升瓶を落したようにガシャンと割れ、粉砕されてしまった。