教育システムは国の教育施策に翻弄される

大きく流れが動いたのは53年。「理科教育振興法」が交付されて、教材費の2分の1が国庫負担になった。これで教育予算の少ない地方の市町村でも必要な機材が実質半額で揃えられる。まだまだ戦争が色濃く影を落とし、経済的にも厳しかった時代にもかかわらず日本は教育に積極的な投資をしたのだ。とりわけ理科には力を入れており、これが、その後の児童の学力を一気にレベルアップさせたことは間違いない。

こうしたトレンドが、コンピュータに波及したのは85年のことである。大久保社長がポイントとして挙げるのは「教育方法開発特別設備費補助」の開始だ。これには3年前に発足していた臨時教育審議会の答申が影響している。そのなかで、教育の情報化が強調され“情報活用能力”という言葉が初めて登場した。学校教育におけるコンピュータ利用が提言され、そこから5年間で、各都道府県にモデル校を設け、1校当たり1,000万円~4,000万円をかけてパソコン教室をつくることになった。

「ちょうどそのころ、NECから『PC-9800』という16ビットパソコンが出ました。これがパソコンブームのはしり。当社でも60年代初頭に電子計算機事業部を設置し、オフコンの『ユーザック電子計算機』をつくっていました。70年代には富士通と業務提携し、同社の8ビットパソコン『FM-8』を扱っていましたが、時期尚早だったのかもしれません。しかし、国民機といわれるほど一世を風靡した『9800シリーズ』によって、教育現場へのコンピュータ導入はパソコンが主流になっていきます。」

こう話す大久保社長は当時、東海地区を担当しており、87年に岐阜県川島町立川島小学校の情報化を手がけている。当時の町長が教育熱心で、3,000万円超の予算でパソコン教室を新設することを計画。そこに岐阜大学も加わり、コンピュータ同士をネットワークする「イーサネット」で校内LANを構築することになったのである。試行錯誤の末、イエローケーブルという太い電気信号を送る線で100台を超えるパソコン同士を接続したという。

こうした動きからもわかるように、教育システムは、国の教育施策に左右される側面が強い。だから、パソコン教室の新設のようにビジネスの匂いがすると、従来から取り組んでいたNECや富士通だけでなく他の大手パソコンメーカーがこぞって受注に動く。しかし、それが一段落すると、潮が引くように撤退してしまう。それにもかかわらず、内田洋行は、教育事業をその社会性から、撤退するわけにはいかないものと位置付けて死守してきた。結果として教育システムが売上高全体の4割を占めるようになる。