同校の予餞会もまた特徴的だ。送りだされる3年生と1、2年生が講堂でむき合って座る。そこで行われるのはなんと「対話」なのだ。自発的に手を挙げた生徒20人ばかりが、3~4分の持ち時間で思い思いの意見を述べあう。これも修猷の伝統的形式だという。予餞会といえば、音楽や演劇の出し物ばかりだと思っていたが、これには驚かされるばかりだ。高校時代、自分ならどんな発言をしただろうか、と思わず考えてしまった。
昨年の予餞会では3年生の反発も恐れず「学校はぼくらが中心だ」と発言をする2年生がいた。「1年生と3年生はハンバーガーでいうとパンのようなもの。中身の2年生次第で学校はエッグバーガーにもビッグマックにもなる」。その言葉に会場が盛りあがったという。うまいスピーチである。10代半ばの少年少女が1000人をこえる聴衆のまえで、おしきせの発言ではなく、みずから考えた意見を述べあう。こうした機会の積み重ねが、生徒の成長をうながすのはまちがいないだろう。「修猷には語る文化があります」(奥山館長)というのは大げさではない。
さらに驚いたのは、部活動に励む生徒がなんと9割をこえるということだ。これもまた他の進学校にはない特徴だ。「最近では、進学校というと入試に無関係な教科をしぼったり、有名私大むけに英、国、社の3教科重視型のカリキュラムを組むクラスを設けるのがふつうになっていますが、当校はそれをやりません。3年生でも体育は3単位ですよ」(奥山館長)
たとえ時代の流れにさからっても、行事も部活も体育も芸術系の授業もしっかりやる。父兄などからは不満も出るはずだが、そんな圧力をはねのけてしまうのが、まさに伝統の強みかもしれない。だからだろう、「修猷は4年制」といわれるように、大学受験のために浪人するものが多く出る。有名大学への進学成績も浪人生でかせいだ面もある。が、浪人したからといって、必ずしも実力が上がるわけではない。むしろ自分を自立的に支えて勉学に励むのは、ある意味で現役時代よりも強い精神力や意志が必要だ。修猷生に浪人が多いというのは、自分への自信の表れだということもできる。
リーダーやサブリーダーになるための条件とはなんだろう。それは十代のうちに「語る文化」の洗礼を受けたり、「自主性」「独立性」といった世界へ立ちむかうときの態度を、言葉ではなく実践的に会得することかもしれない。それが修猷の伝統なのだろう。伝統とは時代に逆らってこそ価値がある。