愛と憎しみの焼畑農業

感情はいつも「爆発間近」

ほかのすべてのプロジェクトでもそうですが、僕は毎回みんなに、とても実験的であること、リスクがあることをきちんと伝えています。そして、僕自身がその実験台の一人です。一緒に実験台になってくれてもいいのか、それを問うています。何も隠しません。その上で、選択しているのは本人たちです。それでも、そんな「選択をさせる」ことが無責任だとでもいうのなら、そんな大人のいう責任なんて、ただのうぬぼれですよ。

この会社は、その実験の「極み」です。疑いようのないような当たり前のルールやヒエラルキーすらも全部とっぱらってみて、全部ゼロからつくってみる。一人ひとり求めるものは全然違うし、大切にすることも違う。

交錯する思惑や感情のエネルギーは、そりゃもう半端じゃないです。喜び、悲しみ、怒り、妬み……。現時点で、なんの評価にも値しないかもしれない。それでも、全部が生きてます。絶えず衝突して、時にはお互いを激しく傷つけあったりもします。

あのですね、僕だってとっても怖いですよ。「やり方」とか「セオリー」なるものに逃げたくなる時もありますよ。剥き出しの感情と向き合うのは、そして自分からも剥き出てくる感情と向き合い続けるのは、楽なことじゃないです。それでも、多少傷つけあったとしても、それでただ右往左往しているだけのように見えても、死んだように生きているやつなんかより、はるかにマシです。そこには、一人ひとりの選択と覚悟があるんです。それ以上に尊いものなんかない。

今回のニュースをふまえ、ある学者さんが僕の一連の活動を指して、「まるで焼畑農業のようなものだ」と言ったようです。

はっきり言います。僕がやっているのはまさに「焼畑農業」です。

「うね」もなければ、栽培計画もない。肥料もないし、水のまき方も分からない。それでも、笑うかもしれませんけどね、バカにするかもしれませんけど、自然の回復力を、人間の原始的な生命力を信じてるんですよ。根と根がつながる日を、信じているんです。それに、僕自身がその農地の一部です。焼かれれば熱くて痛いし、芽が出なければ、不安で孤独です。でも、まだまだ人間を辞めたくない。

この騒ぎの影で、コツコツと仕事を始め、前向きな相談にくるメンバーもいます。これを機に、いろいろ立てなおそうと奮闘するメンバーもたくさんいます。そしてもちろん、これからのことが不安だったり、今なおめちゃくちゃ怒ってるメンバーもいたりします。壊れるものがあって、そして産まれるものもある。いずれにしても、明確な答えや出口なんてわかりません。繰り返しますが、だから、わからないから、やってるんです。それでもやり続けることが、僕の責任です。当事者たちは、ここにいるんですから。

はっきり言います。答えを知ってるかのように振る舞ってるやつなんか、リスクがわかってるかのように振る舞ってるやつなんか、やり方を、やるべき方法をわかってるように振る舞ってるやつなんか、僕は1ミリも信じてません。勝手に、ふわふわ踊ってればいい。

愛も憎しみも、僕たちが生きている、生きようとしている実態そのものです。