「おたくほどわかりにくい会社はない」

1960年代、2代目社長の乾恒雄氏(写真左)と宮内氏(写真中央)、そして、リース事業のノウハウ取得に協力してくれたサンフランシスコのUSリーシングのショーンフェルド氏(写真右)。

会社の創立時は、リース業を日本になんとか根づかせたいという思いで一心不乱に働きました。そのうちリース業だけでは成長が難しいという話になり、会社は多角化に乗り出しました。前任の乾恒雄社長は、大株主に囲まれた会社ではなく独立した会社にしようとやってこられて、会社の基礎をつくった。私が社長を引き継いだのは1980年。その頃、世間的には中堅企業という位置づけでした。

社長になってまず考えたのは、会社を大きくすることです。浅はかですが、会社が大きくなれば、当時抱えていたさまざまな課題を克服できると考えたんです。その思いで一生懸命やって会社を成長させたのですが、会社が大きくなったら、そのぶん課題も大きくなってしまった(笑)。

ライバルに勝とうといった類いの目標は掲げませんでした。私どもが考えていたのは、どこにもない会社をつくることです。人の真似をせずにユニークネスを追求していけば、業界で何位だとかシェア何%といったこともいわなくてよくなります。おかげで、いまではアナリストから、「おたくの会社ほどわかりにくい会社はない」と言われるようになってしまいました。

経営者人生をあらためて振り返ってみると、しんどいことばかり。その中からこれだというエピソードを選ぶのは難しいですね。何しろ毎日問題が持ち上がってきて、「これは天下の一大事だ」と思って決断を下してきた。覚えていたら身が持ちません。夜、酒を飲んだら全部忘れるのが一番です。

あえて印象に残っていることを選ぶとしたら、バブル崩壊でしょうか。あの頃多くの企業は余っていたお金を証券や不動産に投資していました。私どもは証券投資を一切やっていませんでしたが、不動産には融資をしていました。ただ、これは怪しいぞということで、他社より半年から1年早く撤退を開始した。会社が生き残っているのは、あのときいち早く撤退する決断ができたからです。

とはいえ、天才的経営者なら、そもそもバブルの中で不動産に投融資をしていなかったはず。当時はみんなが不動産に投資していて、私もそれに乗っかった。その判断ミスと差し引きすれば、とんとんといったところでしょう。