「私はいい人」思考は自分自身を貶める

浄土真宗本願寺派僧侶
松本紹圭氏

多くの人は世界一とまでは言わないけれど、「自分はそこそこの善人」であると思っています。私自身を振り返ってみても、人には自分が善人でありたいと考える傾向があり、「あれが悪い、これが悪い」と自分を棚にあげて他人を批判したり文句を言ったりします。

自分が善人でありたいと思うのは、自分を相対的な善悪で考えているからです。それは自分のなかにつくりあげた世間を気にかけているだけで、本気で自分自身を深く見た結論というわけではありません。つまり「自分はそこそこの善人」という思いは、他人との比較によって自己を規定していると言えます。

そうやってちょっといい位置に自分を置こうとするのは自己愛や自己中心性という誰もが持つ人間の習性で、その奥底にあるのは不安や恐れです。不安や恐れが、自分というものの確かさを常に確かめたくて仕方がないという気持ちをかき立て、自分をいい位置に置こうという力として働いてしまうのです。

しかし自分は固定した実体であり、連続的に存在していく「個」であるという捉え方は幻想に過ぎません。人間の認識力は固定的なものの見方をしてしまう傾向があって、たとえばいま目の前にあるコーヒーも確かにコーヒーには見えますが、本当はいろいろなものが絡み合い変化するなかでいま、たまたまそういうふうに構成されているに過ぎないのです。

そこを見ずに、一時的なものを絶対的なものとして固定化して見ようとしてしまうのは、仏教っぽい言い方をすれば「ありのままに見られない」ということです。自分をいい位置に置こうとする力が働くのも、ありのままに見ることができず、幻想に過ぎない個としての自分にしがみついてしまうからです。そうやって自分が善人であることに執着すると、だんだんとがんじがらめになり自分の殻を打ち破れなくなってしまいます。

「自分は善人」と思いたい気持ちの奥底にある不安や恐れを「真のリーダー」と呼ばれる人は必ず乗り越えています。逆に不安や恐れで自分にしがみついている人は、会社組織を自分の確かさを強固にするための装置にしてしまう。しかしその延長線上で、殻を破るような大きな仕事に踏み出すことはできません。

他人と比較などしなくても人はありのままで、本当にかけがえのない命を生きています。善悪という相対的な、他人との比較のなかで生きるのは、実は自分自身を貶めていることに気付かなければなりません。そもそも人は善人ではありえず、善人・悪人という他人との比較から離れていくことが大切です。