それは要するに、他人との比較で自分を規定するのはやめるということです。言い換えれば他人の人生を生きるのをやめて、ありのままの自分をそのままの自分として引き受けていく。そうすることによってはじめて自分の人生を生きられるのです。

会社で働いている人の多くは、それが本当に自分の生きたかった人生なのかを問うこともなく、とかく社内外の競争に巻き込まれていきます。そこではたと気が付いて「これでいいのだろうか」と感じている人は、まさに殻を破る入り口に立っている人です。

企業が社員の競争心を煽るのはある程度、有効な面もあります。しかし現代のような知識社会では、企業の未来を切り開く価値を生み出す源泉は、やはり人にあります。管理型のマネジメントでは企業のブレークスルーとなるような価値を創出することはできませんから、企業としても一人ひとりのリーダーシップを開発していく必要があります。

リーダーシップは競争のなかで開発されるものではなく、根本的な人格形成や広い視野、長い時間軸でものを見る力を鍛錬していかねばなりません。他人と比較して「自分のほうが善人」「あいつはダメ」というような狭い世界でやっていては、組織自体も疲弊し殻を打ち破る力を失ってしまいます。

善悪という他人との比較から離れるには、「自分は善人ではない」ことを徹底的に腹落ちしていく必要があります。それには善人であらねばならないといった強迫観念や、自分への執着心を手放すことです。人間の自分に対する執着心はものすごく強いですが、それを手放すと心の自由が得られます。

自分が善人であると思いたい人は「他人に迷惑をかけてはいけない」とよく言います。しかし人のありようをありのままに見てみれば、迷惑をかけずに人が生きていくなどできないことに気付くでしょう。

親鸞聖人は『歎異抄』で「縁さえあれば誰でも大変な罪を犯すことがある」とおっしゃっています。「私は善人」「彼は悪人」なのではなく、誰のなかにも善人性や悪人性があり、その発現は縁次第であると。これは仏教でいうところの「縁起」という考え方です。

縁によってあらゆるものはつながり合い、支え合って成り立っています。ですから、犯罪を犯した人はたまたまそういう縁や境遇に触れたから罪を犯したのであって、縁や境遇によっては自分が罪を犯したのかもしれない――。そういう見方をしていくと、自他を隔てる壁が崩壊し、新たに見えてくる地平があるでしょう。