相手の気持ちになって考え切る

このように、『孫子』と『戦争論』では、策略に関する主張は正反対。しかし、双方に正否や優劣はつけられない。時代や置かれた状況が違えば、考え方も異なるのは当然だ。

策略を講じる際の参考として古典を読む場合も、そこに留意する必要がある。書かれたことを額面通りに受け取っていては役立てることはできない。

それぞれの時代背景や状況を考慮し、さらに自分の身近なケースに置き換えた場合、何に相当するか、どう役立てられるかを、想像力を働かせ、抽象度を上げて読み解くのである。

策略に関する両書の違いをそのように見てみると、『孫子』では「策略が使えるのは一度だけで、こちらの手の内を知らない相手の場合」。対して『戦争論』では「こちらの手の内を知っている相手には策略は利かない。王道を行くほうがよい」という具合に読み取れる。

策略で最も重要なのは、相手の気持ちになって考え切れるかどうか、相手の心がわかるかどうかだ。相手になり切り、何が相手の強み・弱みでどうされるのが嫌だと思っているか考え、その弱いところを攻めて嫌がる方向へと持っていく。これが策略の基本中の基本である。情報収集・選択も同様に、その発信者の気持ちになれるかが重要。その情報に発信者の意図が入っているか否かを掴み、使えるか否か、腐りやすくないかを判断し、取捨選択するのだ。

策略とは、情報戦である。相手よりいい情報を持っていれば動き、そうでなければ動かない。その情報についての見解も両書は対照的だ。『孫子』では、情報収集が重んじられ、スパイを5種類に分類して解説している。一方の『戦争論』は、情報を信用してはいけないと言う。この違いは、双方が扱う「情報」という語の意味の違いから生じる。『孫子』の場合は、君主・政治家の目線で扱う幅広く腐りにくい情報。対する『戦争論』が言及しているのは軍人が現場で扱う情報だ。司令部から伝令を使って戦場の情報を集め、それをもとに命令を出すからタイムラグが生じるし、個々の伝令によっても中身が異なる。

しかし深読みすれば、両書が「情報は腐るもの」「精度の低い情報に振り回されるな」と言っていることがわかってくる。