「狼男」は哀れな被害者たちだった
狼男伝説で語られる「噛まれたら伝染する」は狂犬病の感染ルートであり、「口から泡を吹き人に噛みつく」のは脳炎による凶暴化と嚥下障害です。「夜に徘徊し、光を嫌う」のは知覚過敏、「聖水を極端に恐れる」のは恐水症の症状です。
ウイルスの存在を知らない中世の人々にとって、狼に噛まれた青年が数カ月後に泡を吹き水を恐れる姿は、悪魔の呪いにしか見えませんでした。処刑された狼男たちは、ウイルスに脳をハッキングされ発狂した哀れな患者だったのです。
狂犬病の恐怖は近代に入っても続きました。19世紀アメリカの天才作家エドガー・アラン・ポーの不可解な死もそのせいだといわれています。推理小説の生みの親である彼は1849年秋、他人の服を着た錯乱状態で発見されました。病院に運ばれたポーは、医師が飲ませようとした水を極端に恐れ拒絶し、数日間「レイノルズ!」と謎の人物の名を叫び続け40歳で亡くなったのです。
致死率100%に挑んだ天才化学者
長年ポーの死因はアルコール中毒といわれてきましたが、1996年にアメリカの研究チームがカルテを分析し、狂犬病が死因である可能性が極めて高いと結論づけました。恐水症、激しい震え、錯乱と明晰が交互に訪れる進行など、すべてが狂犬病の末期症状と完全に一致していたのです。
犬に噛まれた記録がなくても不思議ではありません。数年前愛犬や野良猫に手を噛まれていたとして、狂犬病はそれを忘れていて当然なくらい、発症するまでが長いのです。人間の心の暗闇を描いた天才作家は、ウイルスによる脳のハイジャックという現実のホラーにより怪死したのです。
発症すれば100%死ぬ絶望に対し、19世紀後半に科学の力で挑んだのがフランスの天才化学者パストゥールです。彼は狂犬病で死んだウサギの脊髄を乾燥させ、「ウイルスの毒性を弱める」手法を開発しました。そして弱毒化したウイルスを犬に注射し、脳に到達する前に免疫システムに対抗する抗体を作らせるワクチンを生み出したのです。

