「あの食器のことをまだ怒っているのか?」
これまでも離婚がふっと頭をよぎったことはありました。しかし、そのたびに意識しないようにしてきたのです。
「もう自分の気持ちに嘘をつきたくない」
しばらくして順子さんが離婚を考えていることを伝えると、隆夫さんは驚きました。
「まさか、あの食器のことをまだ怒っているのか?」
しかし順子さんは、食器を捨てられたことだけで離婚を考えたわけではありません。
「食器のことだけが問題じゃない。私の気持ちを聞いてもらえず、何でもあなたの基準で決められることに疲れたの」
順子さんがそう説明しても、隆夫さんにはすぐには理解できない様子でした。
熟年離婚は、日常のほんの小さな出来事がきっかけになることがあります。
もちろん、その出来事だけが離婚の原因とは限りません。何十年もの結婚生活の中で、不満や小さな違和感が少しずつ積み重なっていることがあります。コップに水滴が少しずつたまり、最後の一滴であふれ出すようなものです。
隆夫さんにとって、古い食器やカトラリーは「もう使っていないもの」にすぎませんでした。けれど順子さんにとっては、思い出が詰まった大切なものであり、残すのか処分するのかも自分で決めたいものでした。
古い食器やカトラリーを捨てられたことは、33年間の結婚生活で積み重なってきたものをあふれさせる、順子さんにとっての「最後の一滴」になったのです。
「頭を冷やせ」と言われて家を出た妻は、戻らなかった
順子さんは、その後も離婚したいという気持ちを何度か隆夫さんに伝えました。けれど、隆夫さんは「少し頭を冷やした方がいい」と言うばかりで、順子さんの気持ちを受け止めようとはしません。
考えてみれば、これまで何度気持ちを伝えてもわかってもらえなかったのです。「離婚したい」という気持ちだけは理解してもらえると期待する方が難しいのかもしれません。
順子さんは、隆夫さんの言う「頭を冷やす」ためにも、いったん家を出ることにしました。ただし、順子さん自身は、もう家に戻るつもりはありませんでした。
娘に話すと、
「お父さんには何を言ってもわからないと思う。お母さんの好きにした方がいいよ」
と言ってくれました。
娘に保証人になってもらい、賃貸住宅を借りて一人暮らしを始めた順子さん。
自分で食器やインテリアを選び、自分の予定を自分で決められる生活は、想像していた以上に心地よいものでした。
別居生活が続く中で、隆夫さんも少しずつ、順子さんが勢いで離婚を切り出したわけではないのだと気付きはじめました。最後まで順子さんがなぜ離婚を望むのか、本当の理由は腑に落ちなかったようですが、それでも離婚の意思が変わらないことはわかったのでしょう。
そして別居から約1年後、2人は離婚しました。
順子さんが離婚を決めたのは、古い食器を捨てられたからではありません。
自分の気持ちを聞かれることなく、誰かの基準で物事が決まっていく生活を、これ以上続けたくない――。
娘が独立し、これからの人生を考える時期になった順子さんにとって、食器を捨てられた出来事は、その思いに気づく最後のきっかけになったのです。
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