反証から切り離されたソ連科学

こうしてルイセンコはメンデル派の口を封じ、勝利を確実なものとした。しかしこの「成功」には皮肉なしっぺ返しがあった。イデオロギーによって、ソ連の科学は反証やフィードバックから切り離されてしまったのである。

ルイセンコ以前のソ連の科学界では、数々の学者が華々しい活躍を遂げていた。まず1892年、ディミトリー・イワノフスキーがタバコモザイクウイルスを発見。1904年には、イワン・パブロフが消化生理に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞。

1908年にはイリヤ・イリイチ・メチニコフが食菌作用(白血球が体内に侵入した病原菌を捕食する働き)の研究で、同じくノーベル生理学・医学賞を受賞。

1927年になると、ニコライ・コルツォフが、遺伝形質を決める因子は二連構造であると発表。これはのちに「二重らせん構造」としてワトソンとクリックによって確認されている。

しかし、スターリンの排斥政策によって、ソ連の科学界は壊滅状態に陥った。ルイセンコ時代に迫害を受けた科学者ワレリー・ソイフォルは言う。「ロシアの科学の進歩は遅れた。止まってしまったと言ってもいい。何百万人もの大学生や高校生が歪んだ教育を受けた」。

それだけではない。ルイセンコの発案した農法にはほぼ効果がなく、貴重な作物を無駄にして、何百万人という国民の生活の質に多大な悪影響を及ぼした。失敗できない「学説」が招いた結果である。

政治的な思惑によって毛沢東が採用

同じくルイセンコの農法を採用した共産政権下の中国では、さらに悲惨な結果が生まれてしまう。ルイセンコは、作物の生産量を増やす策として極端な密植(高密度の田植え)を提唱していた。「同種の植物は互いの成長を阻害しない」という持論に基づく栽培方法だ。

これは「同じ階級の労働者同士が団結することによって共産主義社会を実現する」という、マルクスや毛沢東の哲学にピタリと沿う理論だった。同じ(階級の)植物同士をまとめて植えれば、争うことなく順調に育つというわけだ。

ドイツ、シュトゥットガルト、夏の熟した穀物畑
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毛沢東は農業や工業の大増産を目指す「大躍進政策」の一端として、ルイセンコの「学説」に基づく農業開発を推し進めた。そしてソ連と同様に、西側の影響を受けた科学者や遺伝学者を猛然と迫害した(※3)。

しかし、密植農法は検証されていなかった。失敗も経験しないままに、政治的な思惑によって各地で採用されてしまったのだ。

※2 Jasper Becker, Hungry Ghosts, Mao's Secret Famine (Simon & Schuster, 1997)(『餓鬼(ハングリー・ゴースト)――秘密にされた毛沢東中国の飢饉』ジャスパー・ベッカー著、川勝貴美訳、中央公論新社、1999年)