イデオロギーが科学を殺す
彼は考えた。このまま否定派としてうまく立ち回れば、政治的エリートとして高い地位を得られるかもしれない。なぜなら、遺伝子の不変性を主張するメンデルの法則は、事物の変化・発展を主張するマルクス主義の「弁証法的唯物論」と相容れなかったからだ。
そこでルイセンコはみずから新たな学説を立て、「遺伝子は環境によって変化し、その後天的な獲得形質も次世代へと伝わる」と主張した。この考え方は、19世紀の博物学者ラマルクの学説の流れを汲むものとも言われている。
科学的な学説は、本来その論理性や実証性が重視される。大事なのは、イデオロギーよりもデータだ。しかしルイセンコは、論理でメンデル派の遺伝学者たちを黙らせることはできなかった。
メンデルの法則には裏付けとなるデータがあり、ソ連中の何千人という科学者が、価値ある説と考えて学問的追究を始めていたからだ。
議論ではなく弾圧に切り替えて
そこでルイセンコは戦略を変えた。議論などせず、弾圧してしまえばいい。立ち回りのうまいルイセンコは、スターリンにメンデルの学説を非合法化してほしいと直訴した。
するとスターリンは、共産主義のイデオロギーに都合が悪い学説を排斥する絶好のチャンスと捉え、これを承諾。その結果、メンデルの学説は「ブルジョア的」「反マルクス主義的」だとして糾弾の対象となり、ルイセンコの学説がソ連の公式見解となった。
当時のソ連では、共産党の方針から外れる者は容赦なく迫害される運命にあった。イズラエル・アゴル、ソロモン・レヴィット、グリゴリ・レヴィツキ、ゲオルギ・カルペチェンコ、ゲオルギ・ナドソンなど大勢の遺伝学者が処刑され、処刑を免れた者は強制収容所に送られた。
高名な遺伝学者ニコライ・ヴァヴィロフも、1940年に逮捕され、3年後に獄中で死亡している。ソ連ではあらゆる遺伝学研究が禁じられ、国中の科学学会において遺伝学者は非難を受けた。

