最初の1年間はほとんど病院に泊まり込み

96年3月、吉川は大阪大学医学部を卒業、国家試験に合格、希望通り第一外科の研修医となった。第一外科は大阪大学医学部の看板である。頭脳に加えて、体力、精神力が要求される。

「入局した日から当直でした。朝の7時から夜中の3時までの勤務。基本、持ち場から離れてはだめ。ご飯のときだけ抜ける。看護師さんが休みに入ると、その役割も我々の仕事。回診では、この患者さんに何のお薬が入っているのかと上司から突然聞かれることもある。

薬の名前はもちろんですが、それがどういう作用なのかも答えなければならない。答えられなかったら、どんな副作用が起こるか分からないのに薬を出してはならないだろうと叱られる。ごもっともなんですが、それがなかなか大変なんです」

ずっと薬の本と辞書を持ち歩いて、次に何を言われるのか先回りして考えるようにしていましたね、と振り返る。最初の1年間はほとんど病院に泊まり込み、家に帰るのは週に1回程度だった。

「病院に寝泊まり、荷物はトランクルームという同級生もいました。少々のことではへこたれない精神力は鍛えられました。それだけ必死だったから成長スピードは速かった」

97年に臓器移植法が制定、99年に心臓移植が再開される。執刀したのは、第一外科教授を川島から引き継いだ松田暉だった。吉川の上司である――。

吉川は日本の心臓外科が大きく動き出す時期、その最前線に居合わせたのだ。

アメリカの医療現場で他と差をつけるもの

2001年10月、吉川はコロンビア大学のリサーチフェローとしてアメリカに渡る。第一外科教授の松田から与えられたミッションは心臓移植の研究でしっかり業績を出すこと、つまり評価される論文を書き上げること。さらにこうも釘を刺された。それだけで終わるな、アメリカで医師免許を取得し、心臓手術の経験を積んでこい、と。

心臓手術に限らず、手技の習得には一定数の臨床経験を積む必要がある。アメリカの医療機関は集約化が進んでおり、日本と比較にならないほどたくさんの患者が集まっている。そこで修行することは理にかなっている。

しかし、である。医師免許は基本的には各国、国によっては州が管理する国家資格である。日本の医師免許を保持していたとしても、アメリカで患者を診るにはアメリカの医師免許を取得せねばならない。当然、試験は英語である。

研究に加えて、妻の出産も重なるなか、吉川は2004年にアメリカの医師免許を取得、2005年からイエール大学胸部心臓外科のクリニカルフェローとなった。高度な専門医療を身につけるための研修医だ。

アメリカ・コネチカット州ニューヘブンにある「イエール大学医学部」
アメリカ・コネチカット州ニューヘブンにある「イエール大学医学部」(写真=ajay_suresh/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

「疾患に関する知識を十分有し、(手術後の)術後ケアおよび術後管理を適切に行うことができる。ただ、心臓手術の経験は10例もなかった。“こいつ何者だ”というふうに見られているのも感じました。他と差をつけるには何かと考えたときに、日本人の真面目さ、勤勉さしかない。まずは術後管理をきちんとすること、英語は不得手だけれどコミュニケーションはきちんと取る」