それまでの指揮官タイプとは全く違った

義経は、戦場で即座に動き、判断し、突破口を開く力に長けていました。その強さは、個としての鋭さにありましたが、組織として戦う場面では、周囲とのずれを生みやすい側面も持っていたと考えられます。

大将に求められるのは、自分が最前線で活躍することではありません。むしろ全体の秩序を保ち、ほかの武士たちが動ける場をつくることでもあります。うしろで控えているべき大将が戦ってしまえば、配下の将たちが武功を挙げることもできません。義経の強さは、組織の中では扱いにくさにもつながったのかもしれません。

義経の戦いは、指揮官として全体をまとめるというより、身体ごと前に出ることで流れを変える戦いでした。その類を見ない姿が鮮烈だったからこそ、人々の記憶に強く残ったのでしょう。

義経像を支えた「対の存在」がいた

義経が「奇跡の天才」として語られるようになる過程では、対照的な人物の存在も欠かせません。その代表が、梶原景時かじわらかげときです。

梶原景時木像
写真=Wikimedia Commons
梶原景時木像(馬込万福寺蔵)(国書刊行会/Public domain/Wikimedia Commons

梶原景時は、源氏の内部で実務や調整を担い、軍全体の動きや秩序を重視する立場にあった人物でした。戦場でも、個々の武勇より、組織としての安全や統制を優先する考え方を持っていたとされています。そのため、義経の戦い方に対しては、危うさを感じ、批判的な立場を取ることがありました。

この違いは、単なる個人的な不仲というより、戦いをどう捉えるかという立場の違いでした。自ら斬り込んで道を開こうとする義経と、全体の秩序を崩さずに戦おうとする景時。そのずれは、源氏の内部で摩擦を生みやすいものでした。どちらが正しいかを断じることは難しいでしょう。

義経のような突破力がなければ戦局が動かないこともある一方で、景時のように全体を見なければ軍はまとまりません。両者の対立は、英雄対凡人の図ではなく、考え方の食い違いとも言えます。

ところが、軍記物の中では、この関係は次第に単純化されていきます。義経が自由で天才的な英雄として描かれる一方で、景時は「融通のきかない人物」「義経の才能を理解できない存在」として語られていきました。義経を輝かせるために、景時は嫌われ役を引き受けることになったのです。

源義経は、本当に奇跡を起こす天才だったのか。それとも、自ら斬り込む強さゆえに、物語の中で「奇跡の天才」という役割を与えられていった人物だったのか。梶原景時との関係を含めて語り直してみると、義経の姿は英雄譚の向こう側にある、より現実的で生身の輪郭を帯びて見えてくるように思えます。