木下が投獄され、和は面会に通う
転機は明治30(1897)年に訪れる。木下は同年7月、中村太八郎らと松本で「普通選挙期成同盟会」を結成。納税額による制限のない普通選挙の実現を目指す活動だった。直後の8月、県議選にからむ恐喝取財容疑で拘引され、長野で重禁錮の判決を受けて控訴。翌明治31(1898)年2月、東京・鍛冶橋監獄署に収容される。
和はすぐに面会に駆けつけた。仕事の合間を縫って週に一度、食べ物や衣類を獄中に届け続ける生活が10カ月続いたという。やつれた木下の姿に同情した和の慰問を、木下もやがて心待ちにするようになる。
原案小説『明治のナイチンゲール 大関和物語』には、寒さに苦しむ木下のために和が徹夜で綿入れを縫って差し入れたり、和が木下から誕生日祝いに和紙に貼った桜の押し花を贈られりと、二人の親密な交流が描かれている。
「出獄の上は結婚という絶頂」
『相馬愛蔵・黒光著作集1 穂高高原』は、その時期の二人をこう記している。「獄中の氏の感激はやがて思慕の情となり、女史もまた持ちまえの熱烈な同情が昂じて、ついに両者の激しい恋愛、そして出獄の上は結婚という絶頂にまで達した」。
11歳年下の青年が、なぜ和に惹かれたのか。木下自身の言葉が、相馬黒光の『穂高高原』に残されている。「氏はよく自嘲するような調子のある、明らかにわざとらしさのあの調子で言った。『人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した智恵が面白い』と」。黒光はこう続ける。「容貌、情熱、年齢、当年の大関女史はまさにこの木下氏の再び得がたい対象であったといえよう」。

