スペイン風邪で58歳にして死去

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾(現・津田塾大学)を設立すると、捨松は顧問に就いて全面支援した。留学の帰路の船上で津田らと「学校を作ろう」と語り合ってから18年、ようやく夢が形になった。

大正5年(1916年)12月10日、夫・巌が満75歳で世を去った。大正8年(1919年)、病に倒れた津田梅子に代わって女子英学塾の運営を取り仕切り、後任探しに奔走した捨松は、風邪気味の体を押して後任のもとへ赴いたことがたたり、スペイン風邪(インフルエンザ)にかかってしまう。新塾長の就任を見届けた翌日に倒れ、同年2月18日、満58歳でその生涯を閉じた。

砲弾の降る城で育ち、太平洋を渡り、鹿鳴館で踊り、最後は人のために外へ出て死んだ。「捨てたつもりで待っている」という名を与えた母の覚悟は、娘の58年の生涯全体を貫いていた。「捨松の生涯を振り返ってみると、その一生は本人の意志ではどうすることも出来ない、目に見えない大きな力によって動かされていたように思えてならない。その力とは、明治という時代の流れである」――久野明子はそう記している。

砲弾を拾い集めた少女は、その砲弾を撃った男と結ばれ、時代の流れに抗いながら、時代の流れとともに生きた。

晩年の大山巌・捨松夫妻、1916年以前
晩年の大山巌・捨松夫妻、1916年以前(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons
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