咲子から捨松に改名したワケ

会津藩の降伏後、旧藩士とその家族は極寒の斗南(現・青森県下北半島)への移住を余儀なくされた。末娘の咲子は函館へ送り出され、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨の縁でフランス人家庭に預けられる。わずか半年だったが「西洋」との最初の接触が、その後の人生を決定的に変えることになる。

明治4年(1871年)12月23日、岩倉具視率いる使節団が横浜港を出発した際、約60名の留学生のうち女子は5人いた。出発時、母・えんは娘に懐剣を手渡しながらこう言った。「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待って(松)いる」。こうして「咲子」は「捨松」と改名され、11歳で太平洋の彼方へと旅立った。なお捨松が船出した翌日、大山弥助改め大山巌もヨーロッパに向けて横浜港を発っている。後に夫妻となる二人が、同じ日に別々の海を越えていたのだ。

明治政府の支援を受けて米国に留学した、初の日本人女子学生たち。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1871年
明治政府の支援を受けて米国に留学した、初の日本人女子学生たち。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1871年(写真=「ネコ肉球4個分の幸せ」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

11歳でアメリカ留学、才能を発揮

コネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿した捨松は、4年近く娘同然に過ごしながら英語を習得した。牧師のベーコンは娘への手紙に「私たちは皆すっかり彼女の虜になってしまいました」と書き送った(久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中央公論社)。末娘のアリス・ベーコンとは生涯の親友となる。

ヴァッサー大学在学中の捨松
ヴァッサー大学在学中の捨松(写真=PD US/Wikimedia Commons

ヒルハウス高校を経て進学した名門女子大ヴァッサー・カレッジ(ニューヨーク州)では、明治15年(1882年)6月14日、学年3番の通年成績で「偉大なる名誉」(magna cum laude)の称号を得て卒業し、日本人女性として初めて学士号を取得した。卒業生総代として行った英語講演はニューヨーク・タイムズにも論評された。さらにコネチカットの看護婦養成学校で2カ月間看護を学び、免許を取得して同年11月に帰国した。その時点でもまだ22歳だった。

しかし、日本は捨松を待っていなかった。留学の目的だった開拓使はその年に廃止されており、捨松の日本語はたどたどしい会津なまりだけになっていた。奉職の打診があっても言葉の問題から辞退せざるを得ず、私塾設立も兄の反対で頓挫した。アリスへの手紙には「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と書き送っている(久野明子著、前掲書)。

そこへ現れたのが、妻を病気で亡くしたばかりの42歳・大山巌(陸軍中将)だった。

ヴァッサー大学1882年度卒業写真。4列目の左から5番目が捨松
ヴァッサー大学1882年度卒業写真。4列目の左から5番目が捨松(写真=PD US/Wikimedia Commons