だが、「転進」は、気がつかないうちに、始まっていた。例えば、研究所長になって立ち上げたプロジェクト。液晶のガラスの表面に付く有機化合物の汚れを、光で洗浄するエキシマランプの開発だ。以前なら、自分で設計図を書き、試作品をテストしたが、それは部下に任せ、プロジェクトの立ち上げと進行を管理した。開発は成功し、エキシマランプは大きく開花して、いまや収益の1つの柱となっている。

光造形装置の開発でも同様だ。いまで言う3Dプリンターのような製品で、30代初めに手がけたヘリウム-ネオンレーザーの技術が別の技術者によって発展し、その応用から生まれた。ここでも、もう「自ら形にする」役ではなく、「会社の明日を支える」という立場への移行が、進んでいた。

播磨工場や研究所には、神戸市にあった実家から通勤した。ドイツ駐在の間に祖母と両親の3人が亡くなっていて、単身生活だ。そこで、阪神・淡路大震災に遭遇し、家は大きく損傷する。ほどなく牛尾氏から電話が入り、「家が被害を受け、住むところもないらしいね。もう1度、東京へ来いよ」と言われた。同友会代表幹事秘書への内示だった。

2年間、ずっと工業倶楽部のビルに詰めて、大手町の本社にはいかない。牛尾氏は、原稿を書いてもそのままは使わず、大きく筆を入れる。その直した部分からも、いろいろと学んだ。いま思えば、意図的に秘書をさせた、という気もする。

というのは、40歳のころに、牛尾氏に尋ねられたことがある。その後、もう1度聞かれたが、「きみは、技術的なバックグラウンドのある経営者になりたいか、それとも全社のことがわかる技術幹部になりたいと思うか、どっちだ」との質問だ。「技術がバックグラウンドにある経営者になりたい」と答えた。これが「転進」の始まりだったのかもしれない。海外経験もないのに、ドイツで買収した会社に赴任したのも、その一歩だったのだろう。

「世有伯楽、然後有千里馬」(世に伯楽有り、然る後、千里の馬有り)――世の中に馬の良否を見分ける名人がいてこそ、その人に見いだされて千里を走る名馬が出てくるとの意味で、中国・南宋時代の謝枋得(しゃぼうとく)の撰による『文章軌範』に収められている言葉。認める人がいなければ、才能を有する人物も世に出てくることはできないとの指摘だ。物理学科の出身者に、経営者としての可能性を感じ取った会長と、経営者への道を率直に希望した菅田流との接点に、それは重なる。