竹中半兵衛は大名の嫡男だった
竹中半兵衛重治(1544〜79)は美濃国不破郡菩提山城(岐阜県不破郡垂井町岩手)の城主・竹中遠江守重元(1499〜1560)の嫡男として生まれた。通称は半兵衛、諱は重虎、のち重治。
主君の斎藤龍興は酒色に溺れ、政務を顧みなかったといわれ、半兵衛は諌言する意味で、永禄7(1564)年2月に義父・安藤守就(「豊臣兄弟!」では田中哲司が演じる)、弟・重矩らで、斎藤家の居城・稲葉山城(岐阜城)を占拠することに成功したという。
織田信長から稲葉山城を譲るように打診されたが断り、のち斎藤家に返却して隠棲した。秀吉が三顧の礼で家臣に迎えたと『太閤記』などでは伝えているが、斎藤家の没落で織田家に転じ、信長の指示で秀吉の与力になったというのが実情であろう。
稀代の知恵者で、秀吉の参謀・軍師といわれているが、実際にどのように戦略・戦術に関与したのかは不明である。ただし、元亀元年に近江浅井家の家臣・堀秀村を調略したのは事実らしい。
生来病弱で36歳にて死す
竹中半兵衛重治は生来、病弱で、三木城攻めの陣中で病死したという。
妻は「西美濃三人衆」の一人・安藤伊賀守守就の娘である。
義父が斎藤家を代表するような大身の部将ということは、重治自身もかなりの動員能力があったと推察され、それゆえ秀吉に重用されたのではないか。加藤光泰、一柳直末・直盛兄弟、仙石秀久、谷衛好など、いずれも美濃出身であるが、城主の子という身分の高い者は一人もいない。
重治はわずか36歳で死去したためか、子は竹中丹後守重門(1573〜1631)一人のみである。
天正16(1588)年、重門は16歳で従五位下丹後守に叙任されたが、所領自体は多くを与えられなかったようで、寛永2(1625)年に本領安堵された所領はわずか6000石だった。
妻は同郷の加藤遠江守光泰の次女である。光泰は半兵衛に九死に一生のところを助けられた恩があり、遺児・重門の後見を買って出たのかもしれない。重門の長男が慶長3(1598)年に生まれているので、遅くともその前年には結婚していたのだろう。


