今川氏との「境目」の領土の奪い合い

たとえは天文19年(1550)8月、義元は尾張国知多郡(鳴海領を含む愛知県南部)に侵攻し、織田方は辛うじて撤兵させた。その際、鳴海領に勢力をもつ国衆(有力な在地領主)の山口氏を仲裁者として和睦交渉が進められ、翌年の早い時期に和睦が成立したと見られている。「境目」の国衆の山口氏としては、2つの勢力が自領で争う状況は、たまらなかったのだろう。

だが、天文21年(1552)3月に信長の父の信秀が死去し、信長が家督を継承すると、信長と弟の信成の対立も露わになるなど、織田弾正忠家の内部は不安定な様相を呈した。すると山口氏は今川方に付き、織田方の大高城(名古屋市緑区)を攻めるにいたった。

こうして鳴海領を今川方に押さえられたことで、信長は窮地に陥る。折しも、主家の織田大和守家が信長に敵対したので、これを討ったが、今度は弟の信成と組んだ織田伊勢守家と敵対。舅で信長を支援していた斎藤道三も嫡男の義龍に敗死するなど、信長は八方ふさがりになっていった。