ウィーンの社交界で人気者に

ウィーンに着くと公使夫妻が手厚く迎えてくれ、国立オペラ劇場に連れて行ってくれた。そこでステージで堂々と歌うソプラノ歌手と、オーケストラボックスの暗がりで演奏するハープ奏者を見比べて歌手に転向、ウィーン国立音楽大学声楽科を受験して4年生に入学することになった。

ウィーンへ音楽修業に行く東京音楽学校のソプラノ歌手、田中路子さん。田中頼璋画伯のまな娘=1930(昭和5)年1月13日(日本電報通信社撮影)
写真=共同通信社
ウィーンへ音楽修業に行く東京音楽学校のソプラノ歌手、田中路子さん。田中頼璋画伯のまな娘=1930(昭和5)年1月13日(日本電報通信社撮影)

はじめは日本公使館に下宿していたが練習ができないため、警視総監の未亡人の家に移る。あまりにお喋りで日本で「ペチョコ」と呼ばれていた路子はオーストリア人の家庭にいるうちにすぐにドイツ語を会得。大野公使夫妻や後任の長井公使に可愛がられ、派手な着物を新調しては舞踏会などに連れられて自由気ままに振る舞っていた。

60歳過ぎの大富豪に求婚され…

しかし1931(昭和6)年初め頃から在墺日本人の間で路子の評判が悪くなった。ぽっと出の小娘がウィーンの上流階級に溶け込んでミッチー、ミッチーと持て囃されていることがやっかまれたのだ。さらに3月半ばには「コーヒー王」とよばれる60歳過ぎの大富豪が路子に一目惚れして求婚。路子がいかに目立っていたかがよくわかる。