地球儀で考えるアメリカ、地図で考える日本
アメリカの政府機関や軍上層部で取り交わされる文書には、しばしば「西半球」や「東半球」という地球儀を想定した言葉が使われるが、アメリカは黒船の時代からすでに「グローバルな視点」で世界規模の戦略を組み立てていたのである。
一方、同時代の日本は、いまだ物質面で近代化の波に乗れていない北西太平洋の島国であり、当時の欧米諸国が運用した遠洋航海の船団を、日本は保有していなかった。
外交や軍事を含む政治全般を取り仕切った徳川幕府は、制限つきで出入りを許したオランダ人を通じて、欧米の文化や専門技術、宗教、社会システム、政治などについて断片的な知識を得ていたが、海を越えて外の世界に打って出る手段を持たない状況では、思考の範囲も必然的に、日本近海とその対岸という狭い範囲に留まっていた。
現存する最古の地球儀は、1492年に現在のドイツ(ニュルンベルク)で製作された「マルティン・ベハイムの地球儀」で、16世紀末には「南蛮(スペインとポルトガルを指す当時の呼称)渡来物」として日本にも持ち込まれ、やがて複製品が作られた。だが、徳川幕府が影響力を行使できる日本周辺以外の領域は、日本人には手の届かない世界だった。
それゆえ、当時の日本(幕府)における外国諸勢力への対処法の検討は、立体の地球儀ではなく、日本を中心として描いた平面の地図上だけで完結していた。
日本の外交は「点と線で捉える思考」
外国勢力と自国の関係も、当時の日本(幕府)においては、日本対中国(清)、日本対ロシア、日本対イギリス、日本対オランダ、日本対アメリカなど、二つの点を線で結ぶような形で個別に考慮されていた。
このような、対外関係を「点と線で捉える」という思考形態は、戊辰戦争(1868〜69年)で徳川幕府を倒した薩摩と長州が大日本帝国政府を樹立した後も、そのまま継承された。日清戦争(1894〜95年)は日本対清国、日露戦争(1904〜05年)は日本対ロシアの図式で、第一次世界大戦はイギリスとの関係重視という体裁をとりつつ、実質は日本対ドイツという図式の戦いだった。
それに続くシベリア出兵(1918〜22年)も、米英仏などの連合国と共に参加したロシア革命への干渉戦争だったが、派遣された日本軍の行動は他国との連携を欠き、ウラジオストク方面でもバイカル湖方面でも、日本対赤色革命勢力という構図だった。
満洲事変(1931〜32年)と日中戦争(1937〜45年)も、国際協調の姿勢を捨てた単独行動としての、日本対中国(中華民国)の戦争で、1941年12月に開始したアジア太平洋戦争(当時の大日本帝国での呼称は、日中戦争を含め「大東亜戦争」)も、全体では日本対連合国という形ではあったが、実際の戦争遂行においては、日本対アメリカと、日本対イギリス、日本対オランダの戦争を並行して行うような形だった。
