新興国アメリカが植民地競争に参戦
政府レベルでの日米関係が実質的に始まったのは、1853(嘉永6)年7月8日に起きた「黒船来航」、すなわちマシュー・ペリー米海軍代将率いるアメリカ海軍東インド艦隊の浦賀(現神奈川県)沖への出現という、日本史上の一大事件がきっかけだった。
当時のアメリカは、ヨーロッパのスペインとポルトガル、イギリス、フランス、オランダによる地球規模での植民地と市場の開拓競争に、出遅れて加わった新興勢力だった。
アメリカ合衆国という国の歴史は、1776年7月4日の「アメリカ独立宣言」を挟んで行われた、イギリス植民地からの独立戦争(1775〜83年)と共に始まった。この戦いでの勝利により、アメリカはニューハンプシャーやニューヨーク、メリーランドなど東部の13州を最初の国土とする、共和制の連邦国家として誕生した。
その後、同国はフランスからの植民地の購入などで領土を西へと拡大し、南の隣国メキシコとの戦争(1846〜48年の米墨戦争)で勝利した後、中西部の広大な領域(カリフォルニア、ユタ、ネヴァダの各州と、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラド各州の一部)を、メキシコからの割譲によって自国へと組み入れた。
ペリー率いる黒船が日本に来航した理由
ペリー率いる黒船の来航は、この割譲を定めた1848年2月2日の「グアダルーペ・イダルゴ条約」から数えて、5年5カ月後のことだった。
北米大陸の横断征服に成功し、新天地カリフォルニアを獲得したアメリカは、太平洋に面した植民地と市場の開拓競争で新たなステップを踏み出し、すでにヨーロッパ各国が参入していた中国の権益獲得に乗り出すための北太平洋航路(大圏コース)を切り開いていった。
また、当時の世界ではマッコウクジラの脳油(鯨蠟)が灯油や機械油、ろうそくや石鹸の材料として広く利用されており、アメリカは太平洋でも大規模なクジラ漁を開始した。その捕鯨船団が、太平洋の反対側で中継基地として利用するのに適した場所として、白羽の矢が立てられたのが、マッコウクジラの棲息環境にも近い日本列島だった。
これらの事実が示す通り、ペリーの黒船来航は、地球規模での国益追求の一環としてなされたものであり、いわば「地球儀(グローブ)の上で立案された」計画だった。
