※本稿は、竹端寛『福祉は誰のため?』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
蔓延する「迷惑をかけるな憲法」
先日、小中学生のお子さんのいる保護者の集まりで、拙著『ケアしケアされ、生きていく』の内容について対話をする会がありました。
そこで、今の若者が日本国憲法より「迷惑をかけるな憲法」を遵守しているという話題提供をした上で、人は誰しもお互い迷惑をかけ合いながら生きているのだから、「迷惑をかけてはならない」という規範に子どもが過度に縛られ、他人の目に怯えていればしんどいのではないか、と提起しました。
すると、その後の感想の中で、「迷惑をかけてはならない、というのは、社会人としての基本であり、子どもにもそれをきちんと学ばせる必要がある」と反論される保護者の方がおられました。
確かに、私も娘に、ワガママ好き放題してよい、と伝えてはいません。列に割り込まず並ぼうね、とか、他人のものを取ってはいけない、などの最低限の常識は伝えています。
でも、社会の最低限のルールを護ることと、迷惑をかけないように常に周囲に気を遣うことは、大きく違うと思っています。自分が納得してそのルールに従うことと、他者に否定的に評価・査定されないように他人の目を内面化することとは、ずいぶん性質が異なる気がするのです。
とれるはずのない「自己責任」もある
これは「自己責任」という言葉の捉え方の違いにも、現れているように思います。一般に自己責任とは「自分の行動により発生した結果に責任を持つこと」を指します。確かに他人のものを壊してはならないし、人にぶつかってしまったら「ごめんなさい」と謝るのは、あたりまえです。
ただ、「自分がやったことには自分で責任をとる」というのは、もう少し解像度を上げて検討する必要があります。
例えば、あなたが家族と暮らしていて、その家族が病気や貧困、障害などで支援が必要な状態にあるとき、その家族のケアをあなたが担わなければならない状態であれば、あなたができる「自分の行動」に制限が加わります。
宿題をする時間もなく弟の世話をした、子どもが熱を出したので仕事を他人にお願いして急遽お迎えに行った、認知症の父のトイレ介助で夜何度も起こされるので日中集中できない。
……こういう様々な事情を抱えていても、多くの場合、仕事や学校で課された内容が減らされないし、他人と・以前のあなたと同じようにできることが求められます。でも、こういう負荷がかかれば、できることにはそもそも限界があります。
にもかかわらず、それができない場合、「他人に迷惑をかける」と自分自身を批判して・追い込んでもよいのでしょうか? それって、「取れるはずのない責任」を抱え込んでいる、とはいえないでしょうか?

