千日回峰行では白装束に蓮華笠を被り、草鞋履きで比叡山中を飛ぶように歩く。堂塔や草木に礼拝、玉体杉という杉の根元では腰を下ろして国家安泰などを祈念する。

回峰行に入るときには、先達の阿闍梨さんが1日だけ同行してくれるけど、そのあとは自分で書き写した「手文(てぶみ)」を頼りに、提灯1つを下げ、夜半過ぎに出発して、けもの道みたいな山道を歩いていくんだよ。普通は1日に40キロ、京都大廻りでは84キロを歩くんだ。

真っ暗な中を歩いて怖くはないかと聞かれることはあるけれど、とりわけ怖いとは思わなかった。たしかに、いろんな気配を感じることはある。山の中で黒い影とすれ違ったり、そうかと思うと、谷の下のほうから食器を洗う音や、大勢でわいわい話している声が聞こえてきたりするんだよ。

そのときはさすがに不思議だったから、翌日、谷の下にある日吉大社(酒井師が歩いた千日回峰行・飯室谷ルートの途上にある古社)に電話をかけて「きのうはずいぶん大勢の人がキャンプか何かで集まっていたようですね」と聞いてみた。すると相手は「そんなはずはありません」というんだな。「私はいつもこの社務所にいるから、それだけの人数が来ていたら絶対にわかります」とね。

こういう不思議なことはあるんだよ。でも、怖いとも何とも思わなかった。

なぜかというと、僕が自分というものを信じていたからだ。自分は仏さんを信じて行をやっている。その自分を信じていれば、静かな心で歩みを進めることができるんだ。もしそれがなかったら、暗い森にさしかかったあたりで、一目散に逃げ出しちゃったかもしれないね。

そもそも自分で「やります」といったからには、自分を信じて進まなくちゃならないのが行なんだ。他人の助けなんて役に立たない。仕事でも何でもそうだけど、アドバイスをしてくれる人ならいるかもわからない。でも、実際に行うのは自分だけ。それ以外にないんだからね。

お釈迦さまは入滅のときに「自らをたよりとし、他人をたよりとせず」とおっしゃった。当時の僕はその言葉を思い浮かべていたわけではないけれど、結局はそういうことだったと思うんだ。