勝負は時の運というけれど、官兵衛はなぜ負けなかったのか。傑出した参謀の手法を丸裸にする

家康が最後まで恐れたのにはわけがある

秀吉が死ぬと、諸武将間の「均衡」が崩れ、徳川家康と石田三成は一触即発の緊張状態になった。黒田官兵衛はこのとき、持ち前の先見力で「これは大きな争乱が起きる」と察知する。

『軍師の門』で官兵衛を描いた作家・火坂雅志さんは語る。

「官兵衛はこのとき、ナンバー2という存在から、自らが天下取りを狙う武将へと鮮やかに変貌を遂げます。まず九州を平定して領地を広げ、その後、関ヶ原の戦いの勝者と戦う気持ちもあったでしょう。実は、東北の伊達政宗や上杉家の直江兼続も同じことを考えていました。しかし、官兵衛のその夢は、関ヶ原の戦いが早々に決着したことによって泡と消えました。徳川家康の東軍と、石田三成の西軍の大軍同士の戦いは雌雄を決するまで2、3カ月はかかるというのが大方の見方でしたが、たった1日で決着してしまったのですからね」

では、運と機会に恵まれていたら官兵衛は天下取りに成功していただろうか。火坂さんの考えは、否である。

家康は政治家、官兵衛は芸術家

「天下人になるほどの政治家は、真の悪人です。野望を老獪にかくしているため、ときに快活に、ときに篤実に。自らの頭の冴えを表に出さず、周囲を安心させることで求心力を大きくしていきます。例えば、徳川家康のような存在がそうです。家康は関ヶ原の戦いに文字通り命をかけ死に物狂いで臨みました。しかし、官兵衛にはそれほど大きな覚悟はない。軍師・官兵衛は政治家ではありません。むしろ、芸術家に近い存在だと感じています。最後に天が自分を必要としているのか、いないのか。自分の智謀力を試してみたかったのではないかと私は思っています」(火坂さん)