秋田の城なのに愛知の城をモデルにする

藤岡氏の指摘に該当する「怪しげな城郭建築」のひとつが、横手城(秋田県横手市)の模擬天守ではないだろうか。

横手城の模擬天守、中は郷土資料館(写真=mk4/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

16世紀半ばに小野寺氏が築いたこの城は、関ヶ原合戦後は最上氏、続いて佐竹氏の所有となり、寛文12年(1672)に佐竹氏の縁戚の戸村義連が入城したのちは、明治まで戸村氏が城主を務めた。その間、江戸時代をとおして石垣がない土の城で、天守も建ったことはなかった。

ところが、昭和40年(1965)に三重四階の天守が、石垣が積まれた天守台上に鉄筋コンクリート造で建てられたのである。岡崎城をモデルにしたそうだが、柱と窓の関係などまったく考慮されていない。

唐津城(佐賀県唐津市)は豊臣秀吉の家臣だった寺沢広高が、東軍にくみして戦った関ヶ原合戦後、慶長7年(1602)から本格的に築城した城である。その際、天守台の石垣は築かれながらも、すでに寛永4年(1627)、「幕府隠密探索書」に天守台はあるが建物はない旨が書かれている。

唐津城には天守の記録がない

ところが現在、その天守台には五重五階地下一階の天守が建っている。これは昭和41年(1966)、例によって文化観光施設として、鉄筋コンクリート造で建てられたものである。天守の記録がなかったため、秀吉が朝鮮出兵の基地として築いた肥前名護屋城(唐津市)をモデルに設計された。

唐津城(写真=MC MasterChef/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

唐津城は築城に際し、肥前名護屋城の廃材を利用したと伝えられるので、あながち縁がないわけではないが、この天守が唐津城の史実と無縁であることはいうまでもない。

平成20年(2008)から令和3年(2021)まで行われた、傷んだ石垣の整備事業にともなう発掘調査では、本丸の各所から古い石垣が見つかり、豊臣政権下の城に特徴的な金箔瓦も発見された。このため寺沢広高の築城以前に、先立つ城郭が築かれていた可能性も取り沙汰され、その時点では天守が建っていたという可能性は否定できない。だが、仮に天守が建ったことがあったとしても、いまの天守がそれと縁がないことには変わりがない。