エージェント契約1番手だった納得の理由
木村拓哉は長きにわたって商品としての自分の勢いを継続させながらも、作品を届けようとしてきた。自分が自分の生産者。23歳のときの発言が、今より説得力を持って響く。そして、エージェント制への移行によって「並べて売るのは事務所」ですらなくなるかもしれない状況がやってきた。
ここまで述べてきた通り、そのプロデュース能力とはかなり相性がいいものではあるが、むしろ完全に独立してやるタイプだと思う人もいるかもしれない。だが、その選択肢を木村は取らなかった。
糸井重里は、木村拓哉が二十歳の頃に、「自分の強さはなんだと思う?」と聞いたことがあったという。そのときに木村は「ジャニーズ」と返し、こう付け加えた。
「ジャニーズじゃなかったら僕はなんでもない」(※9)自分が生産者であるという強い意識を持ちながらも、自分を客観視することができる。これだけの実績を出しながらも、全てを自分の実力だと認識していない――。その自分を売る事務所の強さも認識し、感謝の意を持つ。意志の強さと謙虚さの絶妙なバランスの上に、木村拓哉は成り立ってきたのだ。
ジャニーズ事務所のエージェント制への移行が発表された後、真っ先に事務所が契約に向けて動いている旨が発表されたのが木村拓哉だったのも頷けるのである。
「芸事」を徹底的に追究したKinKi Kids
本章では“芸能界で成功する”ことと“芸事を追究する”ことを分けて論を進めている。だが、難しいのは、芸能界を生き、ある程度の人に知られないと、その芸事を追究する姿も認知されないということである。
また、日本では、テレビで活躍していたタレントが舞台に軸足を移すと「消えた」などと言われがちであり、テレビ露出の多さでその芸能人の成功を判断しているような傾向がある。その傾向には疑問を抱いているものの、少なくとも、小学生だった僕の目にジャニーズが入ってきたのは、彼らが芸能界に生きてくれていたお陰でもある。
『夢物語は終わらない 影と光の“ジャニーズ”論』(文藝春秋)の第1部2章で描写した90年代後半は、SMAPをはじめとしたジャニーズ事務所のタレントたちが芸能界で活躍し、芸能界の一大“ジャニーズ帝国”のように捉えられ始めた時期である。そんな90年代の中頃、デビュー前の1995年には既に「SMAPに次ぐ、超人気コンビ」などと雑誌に書かれていた(※10)2人組がいた。SMAPのバックを多く務め、のちにジャニーズ事務所史上初の2人組としてデビューすることになるKinKi Kidsである。