トイレの行き方すらわからなくなった

スコヴィルは、モレゾンの癲癇の発生源を突き止め、その部分の切除手術を行った。原因の部位は、両側の海馬だったのだ。

手術は成功し、彼の性格は変わらず、知能の低下も認められなかった。ところが、「行動面では、一つ驚くべき、まったく予想外の結果が出た」(前掲論文)という。

手術後、彼は新たに経験したことが記憶できなくなってしまった。そればかりか、過去10年ほどの記憶も消えてしまった(正確にいえば思い出せないのだ)。

手術後、彼は病院スタッフを認識できなくなり、トイレへの行き方すらわからなくなった。また、大好きだった叔父が入院し、3年前に亡くなってしまったことすら覚えていなかった。記憶できないことが、日常生活にどれほどの困難をもたらすのか、私たちには想像だにできない。それでもモレゾンは2008年に亡くなるまで根気強く記憶の検査に協力した。

最近の出来事も過去の記憶も思い出せない

さて、この研究によってミルナーは博士号を取得し、その後、マギル大学の神経内科および脳神経外科の教授になった。以降、彼女は記憶のメカニズムに関して多大な貢献をし、神経心理学の創始者と呼ばれた。100歳になってもなお、記憶に関する研究者のアドバイザーを務めていた。

科学とは、メモを取り、実験を行い、仮説を変更し、実験計画の欠陥やデータのノイズを発見するのに長い時間が必要なのです。また多くの情報を集めなければならないし、多くの統計が必要で、少なくとも統計学の助けが必要だとわかるくらいには統計学を理解していなければならないのです。(「科学界の偉人、ブレンダ・ミルナー博士」より)

続けて、モレゾンの記憶障害を見ていこう。彼は6〜7桁の数字であれば復唱できた。しかし、長期記憶、つまり出来事などが記憶に残らないという、重度の前向性健忘がみられた。また、過去11年間で経験した出来事も思い出せないという、逆行性健忘もみられた。

のちに、磁気共鳴画像法(MRI)が使えるようになったことから、彼の切除部位を細かく調べたところ、海馬だけでなくその周辺部分も損傷していたことがわかった。

この症例報告をきっかけに、世界中で同様の損傷を負った患者の所見が注目され、海馬周辺、つまり側頭葉の内側の機能について、多くの知見が集約されていくこととなった。