脳にある海馬は、記憶形成において重要な役割を担っている。その機能の解明には1人の患者が大きくかかわっていることをご存じだろうか。京都大学名誉教授の乾敏郎さんと、臨床心理士の門脇加江子さんの共著『脳の本質』(中公新書)より、一部を紹介する――。(第1回)

どうすれば記憶力をもっと高めることができるのか

誰しも、自分の記憶力がもっと優れていたならと思った経験があるだろう。古来さまざまな記憶術やトレーニングが試されてきたが、残念ながら、今のところ特効薬といえる成果はないようだ。

頭の中に人間の脳の形の本棚の本
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私たちの生活の中で、記憶が果たす役割はとてつもなく大きい。細胞の集合体である私たちの脳は、どのようにして膨大な記憶を貯蔵しているのか。コンピュータのハードディスクのような記憶装置が内蔵されているのだろうか。

1891年、ハーバード大学の教授ウィリアム・ジェームズは、著書『心理学の原理』の中で、記憶について次のように記している。記憶には、意識されて保持される一次記憶と、まだ意識上にのぼらないが保持されている二次記憶の二つがあるとした。

この一次記憶と二次記憶は、現在、短期記憶と長期記憶と呼ばれるものだ。たとえば、初めて聞いた電話番号を復唱しながら、少しのあいだ覚えておくのは短期記憶。他方、自分の名前や思い出などは長期記憶である。一般には、情報はまず短期記憶として保持されるが、繰り返し復唱されれば長期記憶に移行すると考えられている。

人間が思い出せる出来事の数

さて、この短期記憶、長期記憶のメカニズムについて提唱したのも、『脳の本質』第4章で登場したヘブ(註:カナダの心理学者ドナルド・ヘブ)である。彼は、短期記憶が、今まさに対象を知覚し認知しているニューロン群(細胞集成体)の一時的な活性化であると想定した。

わかりやすくいえば、電気信号がニューロン群をつなぐ回路をぐるぐると回っているイメージだ。そうしているあいだに、ヘブ則によって、ニューロンをつなぐシナプス結合は徐々に強められる。それが長期記憶への移行である。1949年に発表されたこの仮説が、今なお記憶の基盤として支持されていることに目を見張るばかりだ。

一方で、過去に経験した出来事の記憶の数について調べたのは、心理学者グスタフ・スピラーだ。彼は、自分が思い出した出来事をその都度書き出していった。この気の遠くなるような作業を続けること35年、人間にはおよそ1万の記憶があると結論づけた。1902年のことである。

彼は、出来事のさらに細かな要素を数えていたが、最近の研究では、まとまりのある一つの出来事を1単位として数える。それでもなお、思い出せる出来事の数は生涯で数千にも及ぶとされている。