碑に書かれた「寒青」の意味
令和5(2023)年5月、コロナも落ち着きを見せ始めた。
再び『対馬酒唄』の公開を計画し、健さんが小学校4年生から高校卒業まで、青春時代を過ごした町、福岡県北九州市八幡西区香月での集いが決まった。香月市民センターが市民講座として企画してくださったのだ。
昭和6(1931)年、「川筋」と呼ばれる炭鉱町、福岡県中間市に生まれた健さんは、男2人、女2人の4人兄妹の次男。
親族は小田家の菩提寺・正覚寺に「ファンが手を合わせられる場所を」と記念碑を建てた。
高さは台座を含め2.2メートル。碑には「寒青」の文字が本人の自筆で刻まれている。
「冬の厳しい中でも松は青々として生きている。自分もこのように生きたい」
健さんが大切にした言葉である。
私が寺を訪れた時も、供花と珈琲缶で埋め尽くされていた。
講演当日。遠くは関東そして四国からも来られた方々を前に健さんとの想い出の30年間をお話しすることができた。
そして『対馬酒唄』のデモテープを聴いて頂いた。
演奏はギター1本。爪弾くギターの音色と、独特の低い歌声が会場に流れ、参加者はじっと耳を傾ける。
高いところからではあったが、笑い、そして目頭を押さえるお顔が並ぶ。
あたたかな集いであった。
14歳で聞いた玉音放送の思い出
その後、思い出の地を巡ってもらった。
訪れたのは、少年時代に相撲をとった聖福寺。その寺は、当時健さんが住んでいた家の近くでもあった。
終戦の時、14歳。健さんは、自身のエッセイで、終戦を告げる玉音放送(昭和20年8月15日)を香月のお寺で聞いた、と明らかにしている。
(中略)
「天皇陛下の放送があるらしいばい」
全員で寺に走っていくと、ラジオから雑音だらけの音が流れていた。
僕には何を言っているのか聞き取れなかった。
「日本が戦争に負けたらしいばい」
と友だちが言った。
「えー、降参したとな?」
抜けるような青空を見上げ、真っ先に想った。
兵隊となっていた兄は無事なのか。
その後、何度となく味わった人生が変わる一瞬。諸行無常。
このときが初めての経験だったような気がする。
高倉健『少年時代』
少年時代の健さんと同じ風景に立ち、エッセイに綴られた文章が心を過る。
再び、健さんのお墓に向かった。
青空の飛行機雲が健さんの背なに踊る昇り竜のごとく伸びている。
「健さん、お帰りなさい」
私は飛行機雲を仰ぎ見る。