三条天皇の息子と面会して決まったこと
いずれにせよ、ここから状況は、恐ろしいほど道長の思うとおりに進んでいく。
道長が三条天皇に譲位を迫ったのは長和4年(1015)のことで、結局、この年の年末に三条天皇は譲位を決意し、翌長和5年(1016)正月29日、ついに譲位。結果、敦成親王がわずか数え9歳で即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に任ぜられた。
翌寛仁元年(1017)は、さらなる勝利の年だった。まず3月16日、道長は摂政を、長男で26歳の頼通に譲った。もちろん、史上もっとも若い摂政だった。1年半前に、頼通が史上最若年で就任した左近衛大将には、弟で22歳の教通が任官され、ふたたび最年少記録を引き下げた。
そして5月には、在位中に道長と対立した三条院が死去した。4月に流行りの疫病に見舞われた三条院は、いったん回復したようだが、5月9日には衰弱して帰らぬ人になる。三条院は譲位する前から、第一皇子の敦明親王を東宮に就けることにこだわり、それはせめてもの願いとして聞き入れられていた。
ところが8月には、敦明親王が自分から東宮位の返上を申し出たのである。敦明は東宮退位に当たって、道長と直接交渉することを要求。そこで道長は、正妻の倫子が産んだ長男の頼通(摂政)、五男の教道(権大納言)のほか、次妻の明子が産んだ次男の頼宗(権大納言)、四男の能信(非参議従二位)の4人を引き連れ、敦明と会見した。
連れて行った4人の息子全員が公卿だったという事実が、道長の圧倒的な力を物語っている。敦明が求めたのは、東宮を退位したのちの経済的な優遇措置で、むろん、敦明の願いは叶えられた。そして空席になった東宮の座には、彰子が産んだ一条天皇の弟、敦良親王が就いた。これで道長は、天皇と東宮の外祖父になったのである。
11歳の孫と20歳の娘を結婚させる
寛仁2年(1018)になると、正月3日に後一条天皇は11歳で元服し、道長は太政大臣として加冠の役を務めた。そして3月には、倫子が産んだ三女で20歳の威子が、後一条天皇のもとに入内した。
これは11歳の子供のもとに、9歳年上の叔母が嫁ぐという、いわばメチャクチャな結婚だったのだが、こうしてすべてを自分の身内で固めたという点で、道長の栄華を象徴している。
このとき后の座にいたのは、最高位の太皇太后が彰子、皇后が娍子、中宮が妍子で、皇太后が空席だった。しかし、このうちの彰子、妍子の父である道長は、道長の日記『御堂関白記』によれば、さらに威子まで后にするとは、自分からは恐れ多くて言い出せなかったようだが、彰子から助け船が出された。要は、恐れ多いなどと感じる必要はなく、早々に立后すべきだというのだ。
こうして7月16日、威力の立后が決まった。道長が自分の存命中に2人の娘を后にしたこと自体、史上初だった。それがこれで3人目の后となったわけだ。