世話してくれる妻がいる限り、夫は老いても家事をやらない

母が生きていたら変わらなかったでしょう。春日キスヨさんの新刊『長寿期リスク 「元気高齢者」の未来』(光文社新書)を読むと、老老世帯になっても妻に依存し、妻は自分の言うことに応えてくれると思い込んでいる夫がいかに多いかわかります。そのせいで妻がどんどん疲弊していった事例もたくさん出てきます。

男は、妻がいる限り「おい、お茶」っていえばお茶が出てくると思っている。妻がいなくなれば家事もできるようになるし、考え方も少しは変わるけれど、そうでなければずっとそのままなんですね。

母に先立たれた後、父は「ゆで卵をまとめてつくって、ひとつずつ温め直して食べている」と電話で話していました。兄と弟には言わず、私だけにね。娘には、同情を誘おうとしたのでしょう。

また、兄には「ちこちゃんはどうして一緒に暮らそうって言わないんだろうね」ともらしていたそうです。私に直接言わなかったのは、男のプライドだったのかもしれません。妻に依存して暮らし、先立たれたら娘に依存しようとする。私には一緒に住む気は少しもありませんでした。

撮影=市来朋久

妻に依存して暮らし、先立たれたら娘に依存しようとした父

自分勝手な人でしたから、ずっと一緒になんて暮らせない。その点はつらい子ども時代を送った兄弟3人とも同じ思いだったので、互いに責め合うようなことはありませんでした。妻は受け入れてくれるかもしれないけれど子どもは受け入れません、自業自得だよねということで一致していましたから。

いま、私はその当時の父の年齢を超えました。それでもなお、父の価値観や生き方には理解も共感もしていません。母に対しても同じです。北陸の地縁血縁の世界に生きた、保守的な人たちですから、私とはあまりにも違いすぎる。他人として知り合ったとしたら、決してお友だちにはならなかったでしょう。

その後、父のいる金沢へ年に数回ほど帰っては一緒にご飯を食べるのが私の仕事になりました。父はそのたびに「笑ってご飯を食べるのは久しぶりだねえ」などと、私の同情を買うようなことを言いました。もっと帰ってあげたかったけれど、私も働きざかりでしたからそれが限界でした。