冷泉天皇の系統という要素
嬉子が東宮に嫁いだのは寛仁5年(1021)で15歳、東宮は13歳、当時禎子は7歳だった。もしも禎子が男子であれば、敦良親王の次の東宮に推されていた可能性も高い。そして道長の一族、あるいは道長の子供の娘の誰かが入内して、円融天皇の血筋とともに冷泉天皇の血筋もその血統の中に取り込もうと考えていたのではなかったか。
しかし結局三条天皇は道長家との間には禎子一人しか残せなかったわけで、娍子皇后所生の親王たちは、その第一子である東宮敦明親王を辞退させて、政治的には封じたこともあり、いわば使えるカードは禎子しか残らなくなった。
そして正当な天皇家はやはり聖帝の一人と認識されていた村上天皇の長男の冷泉天皇の系統なのだから、禎子内親王は無駄にできないカードだった。
しかし考えてみれば、よく似たことはこれまでもあった。十世紀の天皇家は嫡男継承に何度も失敗し、皇女を政治的に利用してその血統を伝えようとしていたようなのである。
醍醐天皇の嫡男保明親王は皇太子時代に亡くなり、その子の慶頼王も幼くして亡くなった。そのため同母弟の朱雀天皇が嫡男となって立太子するが、男子には恵まれず、同母弟の村上天皇が次の天皇になるのである。
セーフティーネットの構築
一方、保明のただ一人の子孫は慶頼王の同母妹の煕子女王で、朱雀天皇の女御となったが、生まれたのは昌子内親王で、またもや女子だった。もしも煕子が男だったら、醍醐の次の天皇は慶頼王の弟の皇太孫が継いだかもしれず、昌子が男だったら、村上天皇に代わって天皇になっていた可能性もあった。
つまり天皇家は長男の家に継承され、村上の即位はなく、冷泉・円融の天皇家分裂も起こらなかったのかもしれない。
しかし昌子内親王は冷泉天皇の皇后になったが、結局子孫なく終わり、保明親王と朱雀天皇の血統はここで絶える。そしてもしも、昌子が冷泉の男子を残していたら、保明・朱雀・村上の三兄弟の血統をすべて回収した天皇ができていたかもしれない。
ある嫡系で残された女子は、新しい男系嫡系の中に取り込まれるという、いわば次善のセーフティーネットが見られるように思う。
折々の天皇や為政者たちは、このように考えて、孤独な皇女・皇孫を本流に回収して、天皇家の正統性を高めようと考えていたのではないか。とすれば道長の場合も、禎子内親王を一条天皇の系統の天皇に取り込むことで、村上系の正嫡の天皇を一条系に一本化する意識があったのではないか。
生まれたころの禎子に冷たかった道長が裳着のころには手厚くしていたというのは、そういう政治的な意識の転換があったのではないか、つまり孤児の内親王回収ルールを利用して、自分の孫の内親王を自分の孫の後一条・後朱雀天皇の一族に娶めあわせ、権力基盤の強化を狙ったと思われる。このあたり、道長はさすがの寝業師である。