「ゴキブリは人間と共生できない。せめて成仏してもらいたい」
制作を手がけたのは彫刻家の天野裕夫氏。像には、天野氏による制作意図が記されていた。
《ゴキブリは地球上に現れてから3億年たつが新参者の人類がつくりだした都市を舞台にともに繁栄し 愛憎劇を繰り広げてきた ゴキブリの側の片思いの感は否めない ここにゴキブリの腹上に寄生する都市という逆転の構図を彫刻することで 我々の薄情さをうめあわせたいと思う》
なぜ、このような奇想天外な像が林泉寺に作られたのか。
発願したのは、大阪市西区にあるビルメンテナンス会社の「その興産(現・SONO)」の創業者・南園良三郎氏だ。南園氏は隣村の下北山村の出身者であった。大阪で事業を立ち上げ、成功を収めた。南園氏は、ビルを衛生的に管理する中で、ゴキブリやネズミなどの不衛生な生物の出現に悩まされていたという。
そこで、建物の快適な環境づくりを提供する害虫駆除の専門部署を立ち上げる。一方で、ビル管理を通じて多くの命を奪ってきた事実に、申し訳ない気持ちが募り、ゴキブリに対する鎮魂の念が高まってきた。「ゴキブリは、人間とは共生できない。せめて成仏してもらいたい」。
南園氏は小学生時代の同級生であった林泉寺の住職(当時)・故児島真龍氏に相談。その場の酒の勢いも入って、「どうせなら、みんながびっくりするような供養塔をつくろう」ということになった。
児島前住職の妻の美穂さんは回顧する。
「最初は、夫と社長の“悪ノリ”で始まったんですよ。当時、私は『こんな像をつくるくらいなら、檀信徒さんが集える座敷の部屋でも作ってくれたらよかったのに』と愚痴をこぼしたことを覚えています」
会社関係者も「こんな意味不明なものを建てるんやったら、社員にボーナスを出してやれよ」と呆れ顔であったという。
最初は、自然石での一般的な供養塔を計画した。各地には、昆虫を弔う「虫塚」が存在し、それらの多くは自然石に「虫塚」「虫供養」などの文字が刻まれただけのシンプルなものだ。
だが、二人はどこか「面白くない」と思った。そこで、当時、新進気鋭のアーティストであった天野氏に依頼。天野氏も「この雄大な自然を借景にして、ゴキブリの像をつくりたい」と本腰を入れて制作にとりかかった。
護鬼佛理天像は、梵鐘の生産地でも知られる富山県高岡市の工房で、およそ1年間をかけて製作された。製作費はおよそ2000万円。運搬・設置費は別途1000万円ほどかかったが、その興産が全額出資した。
2001(平成13)年11月10日。開眼法要および除幕式が実施された。児島住職、南園社長、天野氏のほか、僧侶や檀信徒、地域住民、その興産の社員ら大勢が参列した。
南園氏は、像の前に「都市の衛生的な環境を維持するに共生の適わぬ生き物たちの鎮魂のためここに霊を合祀して永遠の安らぎを祈願する」との石碑を奉納した。
その興産の社員らは開眼法要のためだけに、奇抜な衣装を作ってきた。この日は、音楽家の演奏なども入り、普段は寂しい寒村も大いに賑わった。夜遅くまで酒宴が続いたという。