帰国して復学されようとしたものの、出席と単位数が不足していることが教授会で問題になりました。「特別扱いはしない」ということで留年が決まり、明仁親王は退学、その後は聴講生として大学に通われました(「学習院」浅見雅男著、文春新書)。

この2つの事例から考えられることは何でしょうか。学習院における皇族に対しての教育は、一般学生と特別扱いはしない、嘘偽りなく、厳しく質素に育てる、ということだと私は考えます。同時に皇族としての自覚を持たせる教育でもあったでしょう。

私が卒業した学習院女子中・高等科で、秋篠宮家の眞子さま(小室眞子さん)が入学された際、秋篠宮家では「秋篠宮さん」と呼んでほしいと要望したそうです。ですが当時の教員はその申し出を受けず「宮様」とお呼びした、といいます。

「皇族としての自覚を持ってほしい」という願いがあったからでした。加えて言うならば、学習院女子では「奉仕の心」を学びます。貞明皇后(大正天皇の后)が力を尽くした、らい病患者の救済をはじめとする各種募金活動がありました。

皇族方を「宮様」と呼ぶ狙い

こうしたさりげない毎日を送る中で皇族としての自覚、つまりはノブレス・オブリージュの精神を養う。恵まれた立場の者には相応の、果たさなければならない責任と義務があることを教える、学習院とはそういう場所なのです。

悠仁さまがお生まれになった際は、学習院の本部がある目白で地元商店会の方々が記念植樹をしました。通学されるのを心待ちにしていたのに「残念です」と当時の関係者は振り返ります。いつか学習院に来て下さるのではないか、といった期待もあったでしょう。

そのせいか目白にある学習院高等科(男子)、大学とも、悠仁さまが入学を希望された場合に備えた受け入れ態勢を取っていたようにも見えます。まず高等科、中高一貫教育が男女とも制度化されている学習院ですが、男子のみ若干名の外部募集枠を残していました。保護者の間では「悠仁さまのために設けられた制度」との噂がもっぱらでした。

また学習院大学理学部は、物理や数学など基礎研究を基本としていましたが、生物や科学を学ぶ生命科学科は2009年創設と比較的、新しい学科です。もちろん、そうした学問のニーズが高まってきた背景があるからでしょうが、こちらも悠仁さまの進学を念頭に置いていなかった、とは言い切れないでしょう。

何しろ皇族の多くの男性方は生物研究をなされてこられました。悠仁様のひいおじい様の昭和天皇は変形菌類やヒドロ研究、おじい様の上皇陛下はハゼ、お父様の秋篠宮殿下はナマズと、生物は男性皇族の専門分野のような様相です。こうした需要に、学習院大学も応じる必要はあると考えたのかもしれません。こんなところに私は学習院の「懐の深さ」を感じます。