紫式部に源氏物語を書かせたワケ

道長の焦りは、第33回の以下のセリフにも表れていた。

まひろが「ここでは落ち着いて物語を書くことができませぬ。里に戻って書きとうございます。どうかお許しくださいませ」と申し出ると、道長はまひろを制して「ならぬ」と大きな声を出し、こういった。「帝は続きができたらお前に会いたいと仰せだ。お前の才で帝を藤壺に。頼む。帰ることは許さぬ。お前は、わが最後の一手なのだ」。

むろん、ドラマなので脚色はある。一条天皇が紫式部に会いたがったという話は伝わっていない。それは、まひろという主人公を立てるための創作で、物語に関心をもった一条が彰子の後宮に渡る、という状況をつくりたかったと思われる。

だが、ドラマと史実のあいだに大差はない。彰子が一条の皇子を産みうる状況をつくるために『源氏物語』を書かせた――。多くの研究者が想定するその線は、ドラマでも外れていなかった。

だが、それだけでは足りない。道長は大きな一手に打って出た。第34回「目覚め」の予告では、道長ら一行が白装束でどこかに向かう場面が映され、道長の声で「わが生涯最初で最後の御嶽詣である」というセリフが流れた。実際、それが道長の大胆な策だった。

見立紫式部図(写真=メトロポリタン美術館/CC-Zero/Wikimedia Commons

75日間の政治的空白

「御嶽詣」とは、寛弘4年(1007)8月に道長が行った「金峯山詣」のことである。金峯山とは奈良県吉野町にある、標高1719メートルの山上ヶ岳を中心とする霊山で、修験道の聖地だった。こう軽く書いても、詣でるのは大変そうに感じられるが、それどころではなかった。これはあまりにも大変な行事だった。

まず「金峯山詣」をするには、精進潔斎する必要があった。すなわち酒食を断ち、魚食も断ち、1日1食の精進を続け、夜は五体投地の祈りを行うのだが、それを何日も続けなければならなかった。道長の日記『御堂関白記』によれば、閏5月にはじめているので、75日の精進を行ったと思われる。それも、彰子の中宮職の次官であった源高政の家に籠り、家族を遠ざけて精進に専念したのだ。

栄花物語』によれば、こうして籠って精進を続けるあいだも、政に関して手を抜くことはなかったという。だが、75日も籠っていて、それはどうだろう。道長を賛美する傾向が強い『栄花物語』ならではの記述ではないだろうか。

続いて、笠置寺や祇園社、賀茂社などいくつかの寺社を巡って予行練習を行い、ようやく8月2日、都を発って金峯山に向かった。