両親の離婚後に続いた「親権をめぐる争い」

シャーマラとドナルドは1969年に別居した。ドナルドがウィスコンシン大学で教えていたときで、カマラが5歳、マヤが3歳だった。1972年1月に2人は正式に離婚した。

自伝でカマラはこう書いている。「2人がもう少し年齢が上で、もう少しだけ精神的に大人だったら、きっと2人の結婚は続いていたはず。でも、2人は若すぎたのね。父は母が真面目に付き合った最初の男性だったのですもの」

2018年に書いたエッセイの中でドナルド・ハリスは離婚後に続いた親権をめぐる争いの結果、カマラとマヤとの親しい関係が「急に終わってしまった」と嘆いている。親権の調停は「カリフォルニア州が父親は子育てできない(特にこの父親の場合は、「島からやって来た黒人」だから)と決めてかかっていた」と非難している。この「ヤンキーの常識」がこの父親は「自分の子供を朝食に食べてしまう」とさえ暗示していたのだと、彼は書いている。「どうであろうと、わが娘たちへの愛を諦めはしない、と私は主張し続けた」

1973年7月23日の最終的な離婚調停ではシャーマラが2人の娘たちの実質的な親権を確保し、ドナルドは2週間ごとの週末と夏季休暇中の60日間だけ娘たちに会う権利を確保することになった。彼は娘たちをジャマイカに連れて行き、親族に会わせ、自分が子供時代を過ごした世界を見せたことについて書いている。「ジャマイカを頻繁に訪れ、そこの生活の豊かさや複雑さを見せることで、具体的に伝えようとしたのだ」

ハリス氏と父親の「微妙な関係」

さらに、「もちろん、後になって、2人がもっと大人として理解するようになったら、『貧しい国』の経済・社会生活の矛盾を説明するつもりだった。例えば、極端な貧困と極端な富とが同時に存在している驚くべき状況などを。しかも、私自身、ジャマイカ政府と共に、この状況を何とかするべく計画を練ったり、適切な政策を立案したりと一生懸命だったのだから」と続けている。

ダン・モレイン『カマラ・ハリスの流儀 アメリカ初の黒人女性副大統領』(彩流社)

父親はそうしようとしたのだろうけれど、ハリスの母親が教えたことの方がずっと影響力を持っていた。カマラは自叙伝の中で何度も母親に触れているのだが、父親に関して述べているのはわずか10ページほどでしかない。「父は良い人ですが、私たち姉妹はそれほど親しみを感じていません」と、2003年のインタビューでも語っている。

カリフォルニア州の司法長官のウェブサイトにある彼女の公式な履歴では、カマラは自身のことを「タミラン乳癌研究所の専門医であるシャーマラ・ゴーパーラン博士の娘」と述べ、その母は「インドのチェンナイから合衆国に渡り、カリフォルニア大学バークレー校で大学院の勉強を続けた」と説明しているのだが、この自己紹介文の中で父親に関してはひと言も触れていないのだ。

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