なぜ世界的な祭りになったのか

オリンピアのあるエリスは小国でギリシャに1000以上あったとされる都市国家(ポリス)のなかでは、アテネやスパルタに比べると弱小国家であることは否めなかった。しかし、大国に領有されない共有・中立の神域であり、しかも対等の立場で肉体の美や能力を競い合い、勝つことは参加者が属する国における地位を確保することにつながった。

こうした事情から全ギリシャ世界の政治エリートたる貴族がこぞってオリンピックに参加するようになり、オリンピックのギリシャ世界における地位、ひいては近隣諸国をも含む形で国際的な地位が確立されるようになった。

しかし、ペルシャ戦争やペロポネソス戦争、北方のマケドニアによる侵攻など大規模な戦争に加えて、エリスはスパルタ軍やアルカディア連邦軍に攻め込まれ、後者には一時的にオリンピアの聖域管理権と大会開催権を奪われたが、その後、奪還した。

このように古代オリンピックはギリシャ情勢だけでなく、その時々の国際情勢にも翻弄されたが、紀元後4世紀まで生き延びた。なお、オリンピック期間中の休戦は全面的なものではなく、競技会の開催に支障が及ぶ戦闘行為に限って停止された。

古代オリンピックにマラソンはなかった

古代オリンピックの競技会は5日間にわたって開かれた。近代オリンピックの2週間超よりかなり短い。

競技種目も陸上競技(トラック・アンド・フィールド)とレスリングやボクシングなどの格闘競技に限られていた。近代オリンピックの華であるマラソンは古代オリンピックにはなかった。

競技会の前日には選手団がオリンピアへ向けて行進した。約200人の選手のほかに審判団、評議員、コーチ、親族・友人、従者の奴隷ら合計1000人以上が参加したという。見物人もぞろぞろついていった。途中宿泊し、大会初日の朝に会場に着いた。

オリンピアの遺跡は1766年に英国の「古代愛好家」リチャード・チャンドラーによって発見された後、発掘作業(第一次)は1875年から1881年までドイツの考古学者クルティウスによって行われた。ゼウス神殿やヘラ神殿、ゼウスの大祭壇などを現在、見学することができる。

競技場は前古典期からローマ時代まで5度改修され、現在、見ることができるのは前4世紀中頃までに完成された第三期のものだ。コースの長さは「1スタディオン」で192.27メートル。スタディオンはスタジアムの語源である。

筆者はギリシャ旅行の際、このコースを走ってみたが、日本の学校の運動場を走るような感じで、紀元前からの競技場であるとの実感はなかなか持てなかった。

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