そもそもは静岡県と浜松県だった
じつは、この問題、たんに県域が東西に長いというだけで生じているのではない。背景には、長い歴史的経緯があるのだ。
1871(明治4)年の廃藩置県後、「静岡県」が誕生したが、当初は現在の静岡県の中部から東部にかぎられた。西には浜松を県庁所在地とする「浜松県」があり、東の伊豆半島周辺は、さらに東の旧相模国(現在の神奈川県の中西部)とともに足柄県を形成していた。
それが1876(明治9)年の第二次府県統合で、浜松県と足柄県の西側が、旧静岡県に吸収合併され、新生静岡県となったのである。さらに説明すれば、当初の静岡県はかつての「駿河国」、浜松県は「遠江国」、そして、足柄県のうち静岡県に吸収されたのは「伊豆国」だった。
ちなみに、川勝前知事が持ち上げた浜松市は、旧浜松県イコール旧遠江国で、御殿場市は旧静岡県イコール旧駿河国だった。
駿河乞食、遠州泥棒、伊豆の飢え死に
この旧3国は現在も言葉や気質まで三者三様だといわれ、それぞれの特徴はよく「駿河乞食(あるいは物乞い)、遠州泥棒、伊豆の飢え死に」と表現される。
3国とも気候は基本的には温暖で、ふだんは食糧などに困ることは少ない。だが、いざ飢饉などが起きると、駿河の人は為政者に物乞いをし、遠州(遠江)の人は泥棒をしてでも自分で食べ物を手に入れ、伊豆の人はのんびりしているうちに餓死してしまう、というのだ。
駿河国は江戸時代、三代将軍徳川家光の弟で駿府城主だった忠長が改易、すなわちお取り潰しになって以降は、広範にわたって幕府直轄の天領だった。このため、藩校がなく、寺子屋が少なく、教育水準はイマイチだったが、徳川家康の臨終の土地であり、さまざまな点で優遇されていた。このため為政者に頼るクセもつき、いざとなったら物乞いすれば済む、という気風になった、というのもわからなくはない。
それにくらべると、遠江の人は気性も激しく、困ったときには泥棒でも強盗でも働く、というのだ。また、浜松藩がその典型だが、藩主がたびたび入れ替わりながら、老中をはじめ幕閣を多く輩出した。あたらしい藩主や藩士たちが他者を受け入れるとともに、綿織物業など産業育成にも力を入れた実績がある。こうして、泥棒もいとわない積極的な気風が誕生したといわれる。
伊豆もやはり天領が多く、気風は駿河にも近いが、山ばかりで海に囲まれた狭い土地なので、いざ困った状況になると飢え死にしてしまう、ということらしい。