12歳の彰子が女御となった日に、定子は皇子を産んだ

それが11月1日のこと。11月7日には、彰子は正式な妃と認められ、女御にょうごの宣旨を受けるわけですが、その直前、明け方に定子は出産していました。その子こそ一条天皇の第一皇子・敦康あつやす親王で、一条天皇は大喜びし、すぐに子の認知を意味する剣を贈っています。定子が待望の皇子みこを産んだ日と、彰子が女御になった日が同じとは、なんという運命の皮肉だとしか言いようがありません。

『光る君へ』では定子が、父の道隆や兄の伊周から「皇子を産め!」と言われる場面がありましたが、実際は直接言われることはなかったとしても、入内した貴族の姫が実家からかけられるプレッシャーは相当なものだったでしょう。それは、定子だけでなく、満12歳、つまり今なら11歳という子どもを産めるわけがない若年で妃となった彰子をも苦しめることになります。道隆はお酒の飲み過ぎで糖尿病になり死んでしまったと思われますが、あと4年待てば、皇子の祖父になれたのに、無念だったでしょうね。

定子は皇子の母となってからも、後ろ盾がないことには変わりなく、道長や藤原実資さねすけの日記からは、通常は賑やかに行われるはずの皇子の誕生祝いが行われた形跡はありません。道長は彰子を中宮にする計画を進め、それまで前例のなかったことですが、定子を最高位の皇后にし、ごり押しで皇后・定子、中宮・彰子という「一帝二后」を実現してしまいます。

藤原道長〈『紫式部日記絵巻』より〉(写真=藤田美術館所蔵/東京国立博物館「日本国宝展」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

第三子を産んだとき、後産が下りずに皇后定子は死去

彰子が立后のために実家の二条邸に下がると、一条天皇は定子と子どもたちを内裏に参内させます。そして、定子はまた懐妊。『栄花物語』によると、この妊娠が分かると、定子は25歳の厄年なので謹慎すべきなのにと嘆き、天皇も心配したとのことです。

そして、その年の12月15日午前、定子は第三子を産むものの、後産あとざんが下りず、翌朝にはあっけなく亡くなってしまいます。25歳の短い生涯でした。

「後産」というのは胎児が出てきたあと、へその緒でつながった胎盤が子宮から剥がれて出てくること。現代の最新医療が整った病院のお産でも、胎盤が出てこなければ、大量出血の危険性があり、たいへんなことになります。